朔夜のうさぎは夢を見る

ゆめをわたりて

 挨拶の合間を縫ってそっと脇に揃えられた酒器に手を伸ばし、さっそくの目の前に杯を突きつけたのはやはり知盛だった。さっさとしろと雄弁に語る瞳に応え、手繰り寄せた瓶子を傾けてから反対側の重衡へと向き直る。
「いただきましょう」
 にこりと笑んで同じように杯を取り上げ、小さく掲げてから重衡は実に気持ちよい勢いで酒を干す。
「慣れておいでですね。兄上に、夜毎酌をさせられていらっしゃるのでしょうか」
「夜毎、というわけではございませんが」
 まあ、頻度が高いのは当人の酒好きの度合いのせいだろう。さらりと流し、左右の杯が空いた頃を見計らっては瓶子を傾ける。
「なるほど、なるほど好い娘じゃな。蓮の花は夜闇のうちに花弁を閉ざすというが、なるほどこれではあたら散らされることもあるまいよ」
「……あざなといい、噂といい。私の知らぬところで、何やらこれのことが取り沙汰されているようですね」
 実に楽しげに笑う翁に、知盛が渋い声を絞り出す。もっとも、それはも抱いていた疑問。初めて耳にした呼び名といい、どうやらいつの間にかまた話が知らぬ方向に進んでいるらしい。
「それは致し方のないことにございましょう。兄上は、蓮華の君のお話が出ると、あからさまにご機嫌が悪くなられるのですから」
 溜め息混じりに言い返してやれやれと肩を竦めてから、重衡はに笑いかける。
「眠りを司る稀なる花なれば、それは蓮の花。まして、俗世の穢れに触れさせんとばかりにお守りになられるのですから、我らからすればこれ以上のあざなはございますまい」


「それで、蓮華の君……ね」
 どうやら褒め言葉に見せかけた揶揄の口上だということまでは察せたが、あいにくにはその真意を紐解くだけの知識がない。知盛が何やら納得しているようだったので、悪意を絡めた口上ではないのだろうが。
「これまでいかな花をも重ねておとなうことのなかったお主が、夜毎に翅を休めにおとなう蓮華。なれどいまだ花弁を散らさず、蕾を綻ばせる相手を見定めている気高い花と聞くぞ。ゆえ、下手に散らされぬよう囲っておるともな」
 くつくつと笑い混じりに翁が引き継いだ言葉は正確ではなかったが誤ってもいない。日和見主義を貫いているのは下手に強硬な姿勢をとらない方が良いという主からの助言の結果であり、夜毎と言っても良い頻度で知盛が枕を求めにおとなうのは事実。もっとも、囲うと称された待遇については、身寄りのない女房勤めの身としては不自然とはいえないものだと判断していたのだが。
「せっかく得た花の褥。あたら失うような真似は、避けるのが良策かと」
「そして、どなたにも譲るつもりはないと?」
「無論」
 気負った様子など微塵もなく述べられた口上には、したり顔でのよく似た声音が続く。常日頃の言動からして、無駄に色香を滲ませた言葉選びが好きなことは知っていたが、今宵の主はいつにもまして絶好調である。仲の良い似たもの兄弟であることだと、そうしみじみ噛み締める一方、どうしたって頬に集まる熱をどうすればいいのかと八つ当たりじみたことも考える。
 反応に困って思わずさまよわせてしまった視線は、穏やかな微笑みに宥める色を滲ませる尼君のそれとかちあう。
「どうやら、殿方には殿方のお話があるご様子。胡蝶、といいましたね。こちらへおいでなさい」
 女は女同士でお話をいたしましょう。穏やかにして絶対的な誘いは、を平穏な御簾の向こうへと誘う救いの手に他ならなかった。


 招かれるままに御簾奥に膝を進めれば、心得た調子で椀と瓶子、唐菓子の乗せられた高坏があっという間に揃えられる。さすが、格調高い邸の女房は一味違うと思わず感心に吐息をこぼせば、楽しそうな笑声が鼓膜を震わせる。
「お疲れになったでしょう? 戯れが過ぎましたこと、許して差し上げてくださいね。我ら一同、本当にあなたに会うのを楽しみにしていましたから」
「いえ、そのようなことは」
 吐息の意味を勘違いされたのかと慌てて頭を垂れて言い繕うものの、指摘は的を射ている。どうにもしどろもどろになってしまったに、しかし尼君は笑って顔を上げるよう促す。
「今宵はめでたき宴です。既にお下がりになられましたが、帝も国母様も、あなたと知盛殿の仲睦まじゅうをご覧になって、いたく楽しげなご様子でした」
「ありがたきことと存じます」
 あくまで穏やかながらも、声に、態度に、満ちる威厳は翁のそれと遜色ない。改めて、とんでもない一族の人間に拾われたものだと思い返しながら、は持てる限りの最上級の礼を尽くして尼君に対峙する。
「ささ、堅苦しいお話はこれまでにいたしましょう。知盛殿には、異国より参られたと聞いています。珍しき話なぞ、聞かせてはいただけませんか?」
「お耳汚しにならないことを祈るばかりにございますが、では、茶葉を白湯と同様に嗜むお話なぞ、いかがにございましょう」
 事前の打ち合わせは完璧である。特にこの日のために口裏を合わせたわけではないが、時代だの世界だの、そういったものが異なるのだなどという言葉を易々と受け入れられるのは、それこそ知盛のような風変わりな、それでいて過ぎるほどに冷静で、呆れるほどに懐の深い稀有な存在のみだろう。
 興味深いといってあれこれと話を聞いていた当人もそのあたりは自覚があったらしく、無闇に口にすれば気狂いとの評がつくだろうから、滅多なことは喋らないようにとの助言を暗に匂わせてくれている。それでも、知盛達の常識からそれた行動は、異国の出自という免罪符でこそ看過されるもの。邸に召し上げられる際、この程度ならばという線引きに協力してくれたのは、知盛が前向きにの存在を受け入れてくれたがための気遣いだと知っている。
 だから、は決して裏切らない。期待も、信頼も。
 邸の女房達相手に語ることで、線引きの中でもさらに受け入れられやすい話題とそうでないものとの分類はできている。まずは無難なものからと言葉を選び、拾い受け入れてくれた主のためにも、物珍しい愛玩動物としての務めに真摯に向き合う。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。