朔夜のうさぎは夢を見る

ゆめをわたりて

「…………お前、拗ねているのか?」
「いいえ」
 しばしの無言の対峙の後、珍しくも訝しげな、探るような声音で問い質した知盛に、重衡は笑みを微塵も崩さず即答を返す。
「ご気色が芳しくないのは以前よりのことでしたが、最近ではついに宴席でも内裏でも浮き名が絶えがちとなり、暇さえあれば邸にお篭もりのご様子。ご不調を無理なさっているのか、あるいは憂い事やら心労のあまり一門の者と顔を合わせることさえ厭うておいでなのかと散々に思い煩い、いよいよこれは父上か母上に直にお尋ねいただくのが筋か、加持祈祷を手配するのが良策かと愚考していた己がひどく惨めに感じると――ただそれだけに、ございます」
 そして続けられた責めの口上に、不機嫌さを残したままそれでも確かにたじろいだ知盛と一層艶やかに笑みを深めた重衡とでは、勝敗の行方は明白。知盛には知盛でそれなりの理由と言い分があることをなんとなく察していたではあるが、だからといって重衡の気遣いと詰りを跳ね除ける気にはならない。すなわち、説明不足だったことに変わりはないのだ。
 納得と少しの気まずさが入り混じる沈黙を、呵呵と大きな笑声が突き破る。
「知盛、お主の負けじゃな! 重衡はそれはそれは深く案じておったのじゃ。詫びて慰めてやらねばなるまい?」
「ああ、でしたら胡蝶殿とお話しするお許しをいただきとうございます」
「うむ、それはよいな。ついでに共々こちらに寄れ。我らも話してみたい」
「ええ。では兄上、胡蝶殿をお借りしますよ?」
 つい視線を巡らせたは上座に座す翁と目が合う寸前で視線を伏せたが、会話はとんとん拍子で進んでいく。さあ、と目の前に差し出された手にどうしたものかと背後の主を振り仰げば、諦めたような大きな溜め息。
「私も同席いたしますこと、お許しいただきたく存じます」
「ほんに、執心との噂は真のようじゃの! よい、許す。ただし、邪魔はするでないぞ」
「……言われずとも」
 恭しい所作で実に丁寧に頭を垂れ、音もなく立ち上がった知盛は見上げるを目で促す。そこでようやく腰を上げるを見やる数々の視線は少なからぬ驚きと微笑ましさに染められていたのだが、あいにく、それを知るのは不機嫌そうに周囲を一瞥した知盛と、その様さえ楽しげに見やっていた重衡や上座の少数の人間だけだった。


 あくまで知盛の背中に控える形を崩さずに膝をついたは、直々にかけられた「もっと近う寄れ」との声に、逡巡の後、結局知盛を振り仰いだ。
「お許しをいただいたのだ、前に」
「承知いたしました」
 とにかく、極力自分での判断を避け、知盛を通すようにとは安芸の教えである。女が男の前に立つことなどない時世ゆえ、女房という立場のがいちいち主である知盛に判断を仰ぐのは別段不自然なことではない。知らず知らずの無礼を避け、知盛を立て、も精神的に落ち着いていられる、それは最上の策といえた。
 与えられた明快な指示にほっと胸を撫で下ろしながら、は知盛と重衡の間に設けられた空間へと膝を進める。
「なんだ、知盛の一方的な執心とばかり思うておったが、そうでもないのか?」
「いったいどのような噂がお耳に届いたのかは存じ上げませぬが……。別に、私がこれを縛り付けている、というわけではございませぬ」
 愉快そうに声を揺らされ、憮然とした空気を滲ませながら知盛は慇懃に応じる。下手な口出しは無用とばかりに口を噤み、は傍観の姿勢である。だが、あくまで注目の中心はなのだ。第三者的立場ばかりをとっていられるはずもない。
「まあ、それは本人から聞けばよいな。お主、名は?」
 よりにもよって、座敷の最上座に陣取る御仁は、一介の女房に主人の前で主の評を下すようにと命じてきたのである。


 つと向けられた視線はやわらかかったが、威圧感が知盛とは桁違いだった。身分の上下というものを存分に思い知らされるそれに、ようやく身に染みてきた反射神経でひれふし、はひとまず自己紹介を繰り返す。
「お初に御目文字仕ります、相国様、二位ノ尼様。胡蝶と申します。今宵はかような場への列座のお許しを賜わりまして、大変恐縮に存じます」
 言ってますます身を沈め、正しく額づいたところで降る声は実に満足げ。
「おお、さすがは安芸の仕込みじゃの。よぉく躾けられておる」
「いいのですよ、私達が会いたいと思ったのですからね。さあ、顔を上げてください」
 許しを得て顔を上げれば、にこにこと笑う優しげな老夫婦がを見やっている。
 記憶が薄れるのは、存外早い。既に仔細が思い出せない両親の顔を脳裏に追いかけ、傍にあった自分を思った。あの頃の自分は世界の何たるかも知らず、手の届くところに愛しい相手のすべてがあった。平穏に満ちた、多くの温かくて優しい眼差しに見守られたちっぽけな楽園の中で、確かには幸せだった。それは、遠く遠く、決して帰れない場所。あの時共にいた、そしてふいの別れなど微塵も予期していなかった、ただ繰り返す日常を分かち合っていた存在には、誰一人としてもう二度と会うことは叶わない。
 慈愛に満ち、家族を思う情愛で溢れんばかりの瞳を見やって胸の奥に湧いた感傷を必死に押し殺し、はそっと口の端を吊り上げる。良いではないか。鞘になると決めた刃たる主が、かくも穏やかな場所に還れることを知って、何が不満なのか。そして願う。喪ってしまったすべての人々が、このような穏やかな場所を失わずにいられる未来を。
「知盛殿には、お礼の申し上げようのないほどお世話になっております。適う限り精一杯にお仕えすることで、わずかなりともご恩返しになればと思う所存にございます」
 再び頭を下げ、告げてちらと視線を流した先では、なぜか不機嫌さの中に気遣わしげな表情を押し込めた主の深い眼差し。気づかれたのだと、確信をもって悟るその内心で渦巻いたのが後悔と申し訳なさに加えて喜びだったことが、にとっては最も不可解な自身の心の機微だった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。