朔夜のうさぎは夢を見る

ゆめをわたりて

 奥の廂から衣擦れの音が響き、一角だけ設けられていた御簾の下ろされた座に人の気配が湧くや、居並ぶ面々は一斉に居住まいを正して頭を垂れた。理由のいかんはともかく、主が頭を下げるならばも頭を下げるべきである。慌てて、しかしそうと気取られないようゆったりとした挙措を意識してひれ伏し、周囲の気配に隙なく気を配る。
 顔を上げるようにとの下知があり、目を合わせぬよう注意して見やれば、上座の御簾の向こうには気配が二つ。そして、空席だった上座には法衣の男女が座っていた。
 じろじろと見るわけにもいかないため顔立ちの詳細などはわからないが、きっと彼らが知盛の両親なのだろうとはあたりをつける。もっとも、やはりにはその身分などはわからない。気さくな調子で歓迎の弁が述べられて宴がはじまるのを見やりながら、できることといえば、席次が崩れると同時に御簾の内から引っ張り出され、自邸での寝酒と同じ調子で酌を要求する主に、今日ばかりは下手な口など聞かず、手許の瓶子から酒を供することぐらいである。
「憂い顔ですね、蓮華の君。宴はお嫌いですか?」
 料理や酒は確かに豪奢だが、楽しむだけのゆとりなどあろうはずもない。緊張による疲れからうっかり溜め息などつかないよう心がけながら酌に勤しんでいたは、耳馴染んだ、けれどどこまでも違う声に笑い混じりに問いかけられ、ぎょっと目を見開いて音源を振り仰いだ。


「そのように熱い眼差しを向けられては、いらぬ勘違いをしてしまいますよ」
 くすくすとやわらかく声を弾ませ、実に優雅な所作で裾を払うのは銀の髪に淡紫の瞳を和ませた美貌の青年。とはいえ、その顔立ちはどことなく親しみを覚える目に馴染んだもの。隣り合って座った二人を思わずまじまじと見比べて、はそっと口を開く。
「失礼ながら、重衡様でいらっしゃいますか?」
「おや、私の名をご存知だったのですね。光栄です」
 目に痛いほど眩い笑顔を浮かべ、嬉しそうに返した青年はごくごく自然な流れでから瓶子を奪い、空けた両手を包んで視線を絡める。
「しかしながら、私はあなたのことを何も知らないのです。御名をお許しいただけますか、蓮華の君」
 真摯な光を宿した瞳を逸らさず、甘い声でやわらに乞われて平静を保てるほどは男慣れなどしていない。反射的に頬を染めながら小さく口を開きかければ、背後から肩を掴まれてぐいと上体を引き倒される。
「……兄への挨拶もなく、ましてその目の前で人の物に手出しをするとは……いい度胸、だな?」
「これは兄上、失礼を。あまりにも可憐な花だったので、つい気が急いてしまいました」
 すぐ傍にあった伽羅の香りに背中をぶつけ、そのまま喉許に指が回されるのと揶揄の声が響くのは同時。それでも捕らわれた指は放されず、滲まされた凄みにもまったく堪えた様子などなく重衡はただ笑みを深める。
「とはいえ、先日お会いしたばかりではありませんか。さあ、散々焦らされたのです。今宵こそは蓮華の君をご紹介くださいませ」
「………胡蝶、だ」
 暫し無言で抵抗を示したものの、結局溜め息交じりに折れたのは知盛である。指を解放するよう目線で促し、自身もまた指を外してが姿勢を正すのを見ながら短く言葉を紡ぐ。


 主の口上を受け、出来得る限り丁重な所作で頭を垂れたは、無言での促しに答えてそっと口を開く。
「ご挨拶が遅れ、大変ご無礼をいたしました。知盛殿付きの女房としてお仕えしております、胡蝶と申します」
「ああ、顔を上げてください。花のかんばせを隠してしまうのは、あまりに惜しまれます」
 あくまでやわらかく希う口調ではあったが、その実は逆らいようのない命。ゆるりと頭を上げ、見やった先には鉄壁の笑みが待ち受けている。そして、その笑みがするりと近づいたと思うや、耳元にふいと吐息に絡められた声が落とされる。
「兄上が余りに焦らされるので、いっそ忍んでしまおうかと考えていたのですよ」
 絶句とは、まさにこの瞬間を示す言葉なのだろう。目を見開いて相手を凝視したまま、は主とよく似た顔で紡がれる、主が決して紡ぎそうにない言葉に反応が返せない。硬直しているをよそに、流れるように身を引いて、重衡はやはりただ笑うばかり。
「兄上は酷な扱いはなさっていませんか? お辛いことがあれば、いつでも私をお頼りくださいね」
 兄上付きの女房が務まるほどに優秀な御方なら、我が邸においても重用いたしますよ、と。からかい混じりの奥に真摯さを秘めた声は耳に心地よかったが、いかんせん、わかりやすく不機嫌な気配を醸し出す存在が背後に控えているは冷や汗が浮くのを抑えられない。
 兄弟がいることは知っていたが、兄弟仲については噂さえ聞いたこともない。もしや、触れてはならない相手だったのかと、脳裏を駆け巡る嫌な予感に柳眉を顰めるを通り越し、どうやら鏡写しの兄弟は互いにじっと睨みあっている様子である。


Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。