ゆめをわたりて
身分だの位階だのといったことには無縁の生い立ちゆえ、知盛の立場をおぼろげに察した今でも、はその重みだの凄みだのが実感できずにいる。しかし、ことの重大さは正しく肩にのしかかってきた。つまり自分は、自分を拾ってくれた主の親族一同に引き合わされようとしているのだ。
宿下がりだの買い物だので邸を出ることはあっても、基本的に女房というのは勤め先の邸から離れないものである。主の枕にされ、女だてらに狩衣を纏って刀を振るうも、その基本から外れたことはない。身寄りがないため宿下がりさえしたことがないというのに、なぜ、一介の女房ごときが、己の主さえ上座に座らないような場に出向かねばならないのか。
「やっぱり、あの噂のせいでしょうか?」
「それもありますが、そもそも、知盛殿がいたく気にかけていらっしゃると有名でいらしたのですよ。ゆえ、一度は顔見せに参られよと、日頃より申し付けられていたご様子」
それこそにしてみれば初耳もいいところであったが、楽しみを見つけた知盛はそれを最大限に活かすための労力を決して惜しまない。余計な勘繰りや噂が生じる前にと、あらかじめ手出しも口出しも詮索も無用と宣言して歩き、ゆえこその型破りな女房仕えがまかり通っているのだが、その根回しこそが一門の興味を惹く最大の要因。
いずれにせよ耳目を集めるのならと、天秤にかけた上での判断だろうし、それが間違っていたとは思わない。それでも、自分が思っていた以上にことが大きくなっているのは、やはり自分が思っていた以上に主が重い身分にあるからなのだろうと改めて思い知らされる。
「……どうしましょう」
ほとほと困り果てて唇をすり抜けたその一言こその憂いと戸惑いを集約していたが、あいにく安芸にはを助けるための手立てなどないのだ。
女房装束に違いはないのだが、日頃のそれよりも華やかな襲をあてがわれ、他の女房達の手を借りながら髪をくしけずってかもじで長さを整える。これまでにないほど徹底的に装いを改めさせられれば、これから赴く先がどれほどの場であるかをおのずと思い知らされるというもの。土産話をたくさん拾ってくるよう願う同僚達に生返事を返しながら、は必死に頭の中で叩き込まれた挨拶の口上を繰り返す。
そうしてほぼ一日がかりで身なりと付け焼刃の作法を整えたは、同じく安芸の采配によって、帰邸してより衣装を改めた知盛の待つという車宿りへと足を急がせる。
「ほぉ?」
庭先に控えた牛飼い童を相手に何やら指示を出していたらしい知盛は、近づく衣擦れの音に顔を上げ、ひょいと器用に眉を跳ね上げた。
「随分と、化けたじゃないか」
「お褒めいただき光栄の至りです」
「……素直じゃないな」
しみじみとした感想には虚飾の気配がない分、としては複雑な心境である。棒読みで返礼を示せば、溜め息交じりに呆れられる。もっとも、今回のの背後には、力強い味方が控えている。
「もっと素直に褒められてはいかがです?」
「そうしたつもりなのだが」
「では、ぜひとも重衡様に女人の褒め方を問うていらせられませ」
「………襲の見立ては、安芸か?」
ぴしりと切り返された言葉にはあえて触れず、知盛はあからさまな話題の転換を試みる。
「ええ。せっかくですので、揃えさせていただきました」
揃えた、との言葉通り、紅梅の薄様を纏うに対し、知盛は梅の襲。どちらも紅色やら蘇芳やらの映える装いである。主の逃げ口上になど微塵の感慨もみせず、堂の入った鉄壁の笑顔も鮮やかに二人の母親ほどの年齢の女房は「さあ、お早く」と乗車を促す。
「めでたくも主上もご臨席なされる宴とのこと。どうぞ、楽しんで参られませ」
笑みはそのまま、それこそ子を見守る母の声音で見送られたものの、としては地獄に続く車に押し込められたような気分での出立だった。
会話などする余裕もなく、沈黙を保ったまま進む車の中で、しかし主は大いにの無言の苦しみを観察して楽しんだらしい。初めて利用することもあって乗降の勝手がわからずに戸惑う様子も、知盛の愉悦に色を添えたのだろう。目的地に到着し、先に降り立って差し伸べられた手を反射的に取ってしまったのは、返す返すも大失態だったとは静かに唇を噛む。
一門が揃う、との前触れのとおり、参加者が各々に妻子を伴い一堂に会する宴は、実に華やかな空気に満ちていた。とはいえ、宴席というものに初めて接し、ましてや普段は自分こそが下働きの側だというのに、今宵ばかりは客人という立場。女である以上、御簾の外に堂々と座すわけにもいかない。席は用意してあるゆえ、自分に近い御簾内に座るようにとの指示はあらかじめ受けていたが、先導の女房について設けられた座へと歩いていく間中、言い知れぬ違和感が全身を苛んで仕方がなかった。
「どうした。やけに、気を張っているようだが……?」
向けられる視線に必死に会釈を返しながら辿りついた席、既に腰を下ろしていた知盛の斜め後ろにあたるそこで膝をつきほっと息をつけば、耳聡く聞きつけて笑い混じりの声がかかる。流された視線の奥には、堪えきれないと雄弁に語る喜悦と好奇心の色。
「何もかも初めてなのです。緊張ぐらい、お許しください」
「咎めたりなどしていないさ」
飄々と嘯き、そういえばちらと見た限り、向けられるいかな挨拶にも適当に「ああ」などの相槌だけで済ませていた知盛は、言葉にしないまま向けられる関心の気配にも悠然と笑う。
「ただ、そうだな。折角の披露目の場だ……俺の鞘たるにふさわしからぬざまなぞ、曝してくれるなよ?」
「……全力での善処は、確約します」
向けられる眼差しは、愉悦のさらに奥に試すような鋭い光を隠している。垣間見えたそれにつと息を呑み、しかし平静を装って返した最大限の努力の宣誓に誘発されたらしい知盛の笑いは、最奥の席を埋める気配がやってくるまで、ついにやむことがなかった。
Fin.