ゆめをわたりて
知盛の邸で働きはじめてしばらくして、どうにもこの主が女性に大層人気であることを知ったのとほぼ同時に、なぜか男性にもいたく人気であるのを知ったのは必然ともいえよう。面倒を嫌う性格ゆえか、邸をおとなう客人は皆無。だというのに、文がひっきりなしに届き、贈り物にも事欠かない。乳母子である家長を筆頭に郎党達が心酔しているのは一目瞭然だし、男女の関係にはないと言い切った女房達も、人間としての魅力を褒め称える。
観察と推測を重ねに重ねた結果、が行きついたのは、とかくこの男は要領がいいのだという現実だった。才能があり、容姿に恵まれ、詳しくは知らないが家柄も良いらしい。そして、当人がそれを熟知している。どれか一つでも欠ければただの嫌味にしかならないだろうどこか浮世離れした独特の言動も、それを他に類を見ない魅力として周知させるだけの妙な存在感がある。
自分の許に舞い込むようになった文の端々から、ようやく主が院や帝にも直々に目通りの叶う地位にあると知った今、その要領の良さをふんだんに発揮して、大いに被っているその猫がどれほど素晴らしくまた隙のないものかは、こそが太鼓判を捺して保証したい。そして、そんな主が直々に召したという自分が、政治的な駆け引きとしても単に色恋の興味としても、存分に耳目を惹く立場にあることを、嫌でも思い知らされる。
知盛がその名を馳せ、その才と魅力を周囲が認めれば認めるほど、その知盛の纏う同じものが二夜と続かない移り香に被せる安息香は、知盛自身が正体を袖のうちに隠していることとあいまって、いよいよもって存在感を増していき、舞い込む文も増えていく。
文を返すことなど不慣れもいいところ。必死になって頭を捻り、和歌の得意な女房に添削をしてもらいつつ決死の思いで筆を握る。まさに背水の陣といった状況を通じて手習いの腕が上がったことは決して忌避すべきことではなかったが、暇さえできればの局に瓶子と杯を携えて現れ、悪戦苦闘するさまを肴に酒を楽しむ主を恨む思いは消えない。まして、楽しいからなどというふざけた理由で周囲を煽り続けるのだから、詰る自分は正当な権利があると主張したいである。
さあさあ、と慇懃無礼に追い立て、すっかり皺の寄ってしまった直衣に眉間に皺を刻む。絹の仕立てだから衣桁にかけておけばきちんと抜けるのだろうが、なんとも無造作な扱いである。
「すぐに手水をお持ちします。ゆめゆめ、寝直されたりはなさいませんよう」
「……わがままな、女房殿だな」
「当然のご注意を申し上げただけです」
わざとらしいあくびに添えられた文句に切って返し、着替えるのだから部屋を出ろと続くはずだった言葉はしかし、ついと楽しげに歪められた口の端に遮られる。何かを隠している。しかも、にも大いに関わりのある決定的な何かを。
そう判じることはできたが、結局続きは口にせず、大人しく知盛は御簾を潜って寝殿へと戻っていってしまった。
心に引っ掛かりを残さなかったといえば嘘になるが、は決して暇ではない。そもそも、女房仕えの中でも朝は忙しい時間帯。大分馴染んだとはいえ、熟練の女房達が揃う知盛邸においては今なお未熟者としかいえないにとって、その忙しさはさらに切迫感を増している。
実は特に根拠もなく切り捨てたのだが、やはり物忌みというのは口からでまかせだったらしい。大人しく身支度を整え、朝餉をつついてから出仕する主を見送るべく車宿りまで付き従ったは、しかし、最後の最後になって思わぬどんでん返しを喰らう。
「今宵、出かけるぞ」
「……いずこかの姫君の許へ?」
「うつけ。ならばお前になどわざわざ言ったりはせん……。お前を伴って、父上の邸にうかがう」
もう車に乗ろうかという段になってふと。思い出したように軽い調子で言い渡されたのは、邸に召し上げられて一年半にして、初めて耳にする類の命令。混乱で目を白黒とさせる様子がおかしかったのか、くつりと笑ってから知盛は「安芸にでも聞いておけ」と無責任に言い放ってさっさと牛車に乗り込んでしまう。
もはや条件反射といっても良いだろう。ごとりと車輪の動く音に、習慣と化した叩頭と「いっていらっしゃいませ」という挨拶を送ってから、改めて混乱の渦に叩き落されたは、大慌てで頼れる女房頭を探して渡殿を取って返した。
繕い物を抱えて端座する安芸を見つけるのは、そう難しいことではない。どうやら仕事をする際にはここで、という暗黙の了解があるらしく、安芸は大概寝殿の北廂の一角にいることが多い。
すり足での移動にもだいぶ慣れ、ぱたぱたという足音ではなく、袴と袿を引きずる衣擦れの音を共に廊下を急ぎ、上擦った声で「失礼します」と呼びかければ、落ち着き払った声が入室を促す。
「来られる頃だと思っていましたよ」
どうせ、出掛けに用件だけ述べて、後はそのままにしていかれたのでしょう。
溜め息交じりの推測はまさに図星。長く付き合っているとやはり違うのかと、しみじみ思いながらも追求の手は緩めない。
「今夜、出かけるから共に来いと。詳しいことは安芸殿に伺うようにと言われたのですが、どういうことでしょう?」
膝をつくのももどかしく、身を乗り出すようにして問いかけるに、安芸は困ったように溜め息をついて、わずかに視線を泳がせる。
「ついに折れたのか、この機を見計らっていらっしゃったのかは判じかねますが。ともかく、入道様のお邸にご挨拶に伺うのですよ」
「入道様? 知盛殿の、お父君のことですよね」
「そうです。今宵の観桜の宴にあわせてのご対面となりましょうから、他にも一門の方々が大勢いらっしゃることでしょう」
頬に手を添えての溜め息は重く、その憂い顔からどれほどとんでもないことが起ころうとしているかは明白。処理能力の限界値を超えた事態の展開に、は気が遠くなる錯覚に捉われる。
Fin.