ゆめをわたりて
左兵衛督殿は、安息香がことのほかお気に入りらしい。
その揶揄とも取れる噂がの耳に入ったのは、どこで聞きつけたのか“平知盛が召し上げた新しい女房”の許へと文が送られるようになってよりしばらくしてのことだった。
前触れもなく届けられた文は、差出人も何もわからない。努力を重ねた手習いの甲斐あって自力での読解は適ったが、まさか邸からほとんど出ない、噂の種になるほどの雅事の才も持たない自分が恋愛の対象になるとは露ほども考えていなかったは、困惑のあまり、それをちょうど昼寝にやってきた知盛に告げた。後から思えば、その選択こそが間違いへの第一歩なのだが、今さら悔いても仕方がない。
その時はちらと件の文を一瞥したきり、受けるならばそれなりの文を、断るならばそれなりの文か、あるいは返事など出さずにおけばいいと的確な指示を出しただけだったが、どうやら焚き染められていた香と手蹟から差出人を特定していたらしい。どういった内容にすればいいのかがわからず、結局安芸に助けを求めて丁重に「今はそういうことを考えるつもりはない」といった趣旨の文を送ったというのに、返されたのは「通うことは控えるが、心変わりしていただけるよう文を送り続けることを許してもらいたい」という、なぜか一層熱烈さを増した恋文。
それを皮切りにいくつもの文が舞い込むようになり、ついに噂が届いた際の安芸の引き攣る笑みは忘れがたい。世の中には怒りを如実に表す笑顔があるのだと、しみじみ身をもって実感した瞬間だった。
当初は状況を理解できていなかっただったが、文の乱舞の原因が知盛にあることにはすぐに察しがついた。邸の女房の一人によって噂がもたらされたのは、なぜか知盛の父母に呼び出されて安芸が邸を空ける予定だったその日の出かける直前。知盛が戻ったならばきっちり追及するよう言い置いて安芸が邸を出るのを見計らったようにふらりと出先から主が戻るのを見た折には、いったいどこまでが彼の計算の範疇なのかと、頭が痛くなったものだ。
着替えのためにとを呼びたて、あくび交じりに枕にされそうだったのを、すんでのところで身をかわす。面白いといわんばかりに危険な光を宿した瞳を無視して、は主に向き直る。この、主従という枠を逸脱しつつある関係は、これでいいのだろうかという疑問よりもこれがいいのだろうという妙な納得によって築かれた、と知盛の特有の距離感だった。
「伺いたいことがあります」
「……聞こうか」
「先日より、なぜか殿方より御文をいただく機会が増えました。安芸殿いわく、知盛殿がいたずらに煽られた結果だろうとのこと。どういうことでしょうか」
ぴりぴりとした苛立ちを隠しもせずに向き合えば、決して人の心の機微を解するのが不得手ではない知盛は、先日自らの手で持ち込んだ脇息にもたれながらじっとの顔を覗き込む。あえて人の神経を逆撫でするような物言いを好む傾向にある主だったが、越えてはいけない一線は決して越えない絶妙な配慮もまた得意。内心の読めなかった表情が、はたりと瞬くことによって真摯な色に染まる。
「お前、文を貰ったろう?」
「それは、先日お見せしたあれですか?」
「あんな輩にお前ほどの枕を横取りされるのは、我慢ならん」
「話が飛躍しすぎです!」
いつになく硬く真面目な声で切り出されたものだから、表情を改めて聞き入る姿勢になったというのに、どこまでも大真面目な声はあまりに身勝手な結論を放り投げる。
よくよく見れば、知盛の目の奥では、愉悦と不機嫌が同じほどの色を刷いていた。愉悦はわかる。知盛が自分から何かを仕掛けた結果がこの文の攻勢だというのなら、思うとおりになった状況を楽しんでいるのだろう。だが、不機嫌の理由がわからない。面倒ごとをとにかく嫌うこの主が、面倒なことになるような仕掛け方をしたとは到底思えないのだが。
「せっかく秘していたというのに、どこで漏れたのだか……」
「わたしのお仕えのことですか?」
じと目で睨みつけてしばらく待てば、ぼんやりと庭を見やりながらゆるゆると知盛は口を開く。
「俺が召した……と。それだけで、連中には、お前を手に入れる甲斐があるらしい」
吐き捨てるようにして言い放ち、侮蔑の色を隠しもせず。じっと何かを睨み据えてから、知盛は視点をへと据えた。
「ゆえ、教えてやったのだ。お前を恋うのは勝手だし、忍ぶのも勝手だ。だが、お前は俺の枕だから、お前に黙って忍んだところで、俺に枕にされているお前を見るのが関の山だ……とな」
あの時のやつらの反応は、楽しかったぜ、と。にたりと浮かべられた笑みは極悪。
「お前を枕にして以来、その安息香は誰のものかと、問われることが多かったからな。噂が漏れるのも時間の問題。ならば、今のうちに釘を刺しておく方が、面倒が少ない」
「それで逆に対抗意識を煽られて、あんな御文を……」
明らかになってみればそれは実に主らしい攻撃的な牽制の仕方であり、恐らくは狙い通りの波及効果をもたらしているのだろう。だが、巻き込まれた側としてはたまったものではない。何より、枕にした時点でこうなることを見越し、それでもあえてが寝具に焚き染めている安息香を隠そうともせずにいたことが、知盛の性質の悪さを如実に示している。
Fin.