朔夜のうさぎは夢を見る

ゆめをわたりて

 色々と勘繰りも受けたが、つまるところにとっては寝起きの場所の変化に日々の習慣が多少追加されただけで、生活にさしたる変化はない。ただ、日常を過ごす場が近くなり、鍛錬だったり枕にされることで共有する時間が増えた分、知盛という人物を知る機会が増えたことは、ささやかながら十分な変化ともいえた。
 ふと、かぎ慣れない香りが鼻を掠めた気がして重い瞼を持ち上げれば、そろそろ見慣れてきたごく近い位置に、闇の中でより深みを増した蘇芳が広がる。
「……起こした、か?」
「いいえ」
 そっと、密やかに降ってきたのは主の声。半ば眠りに堕ちたままぼんやりと否定を返し、は視線を上向ける。決して眠りが浅い方ではないから、この、時間を弁えない珍客のせいで目が覚めたのだとは断言できなかった。もっとも、今回はその珍客の纏う香りで目を覚ましたから、否定はそれでもどこか責めの色を帯びている。
「寝ていろ……。まだ、暁は果てぬ」
「とももりどのは、」
「寝る」
 呂律の回らない問い返しは、実に明快な答えによって遮られた。問答の間ももぞもぞと動いていた主は、どうやらを抱き枕に、寝心地の良い場所を探していたらしい。ようやく満足がいったのか、つむじの辺りには深く吐き出された呼気を、肩口には抱きこむ腕のぬくもりを感じる。
 腕に包まれ、胸元に押し付けられた鼻先から感じるのは華やかな侍従。その奥には知盛自身が纏う伽羅。眠る前に安息香を焚き染めた上掛けが、あっという間に艶やかなにおいに凌駕されていく。
 無意識に眉根を寄せ、しかしそれを自覚した際に生じた違和感の正体は、せっかくの安眠を房事の名残で乱されたからだと宥めすかす。
「よいそう」
 何に、かは、自分でもわかっていない。ただ、酔ってそして惑わされそうだと。脳裏をよぎった素直な感想を何も考えずぽつりと紡いで、は再度眠りの淵に潜るべく視界を閉ざした。


 今度こそ夜明けの気配と共に正しく目を覚ましたは、呼吸も深くすっかり寝込んでいる知盛の肩を軽く叩くことから行動をはじめた。いくら自分の邸の、ろくに部屋の埋まっていない対屋とはいえ、日が昇ってからの移動は褒められた行為ではない。自室に戻るには、女房の仕事に赴くが起き出すこの刻限が、ギリギリ許される最後の時間帯なのだ。
「知盛殿、起きてください」
 肩を拘束している腕の中からそっと抜け出し、寝衣の乱れを直しながらいまだ目覚めの気配のない主を見やれば、呆れたことに直衣さえ脱がずに横臥している。そういえば、最後に見たのはこの色だったと昨夜のおぼろげな記憶を呼び起こし、ついでに引きずり出された記憶に眉をしかめる。
 わずかに身じろぐごとに燻るのは、焚いた覚えのない香。すっかり移ってしまった侍従に、また今日も同僚に好奇と憐れみの眼差しを向けられるのかと思うと、いい加減慣れたこととはいえ、複雑な気分になる。
「知盛殿、知盛殿! いい加減に戻られませんと、出仕のお支度が間に合いませんよ」
「……今日は、物忌み、だ」
「違います。さあ、起きてください」
 腕の中身を失って手持ち無沙汰になったのか、くるりと丸まって上掛けの中に一層深く潜り込みながら、とろりとした声が返る。慣れない人間が聞けば完全に寝惚けていると判じるのだろう声音だったが、あいにく、意識さえ浮上してしまえば寝起き自体は良いのだとは知っている。言い訳を切って捨て、狸寝入りを決め込む主の肩を改めて揺する。


 抱き枕宣言を出されたは、部屋を移るにあたって改めて安芸から“一般常識講座”を受けていた。とはいえ、常識は常識でも“大人の常識”である。
 毎朝、知盛を起こして出仕の支度を手伝うのはそもそもお付きの女房としての仕事だったが、それもすべて安芸の指示を仰いだ上でのこと。しかし、そうも言っていられなくなったのだ。
 そも、異性の部屋に夜分訪れることの意味からはじまり、男女の仲における暗黙の了解だのしきたりだの、その内容は多岐に渡る。結果として、はからずも年齢に見合わぬ世間知らずの小娘からいつでも恋人を迎えられる大人の女性への格上げが適ったのだが。
「いったい幾重の香を纏われるおつもりですか。香が完全に染みる前に、お部屋にお戻りください」
「そういうお前も、文に事欠かんそうだな?」
「ご存知ならばご自重ください!」
 だがしかし、だからこそわかるようになってしまった暗黙の了解というものがある。ごろりと寝返りを打ち、見上げてくる薄く開かれた瞳は寝起きとは思えないほど強い光を弾き、からかいに満ちて揺れている。毎日とは言わないものの、かなりの頻度で移り変わる香りを「風雅なものだ」とのんきに捉えていたかつての自分が、今では懐かしくも恥ずかしい。
 移り香は、逢瀬の証。衣に、髪に、肌に染み付いた香りは案外抜けにくく、そして風雅な人ほど香りには敏感にできているらしい。寝入りばなから枕にされるならともかく、夜更けの内にかぎ慣れぬにおいを引きずったまま勝手に褥に潜り込まれ、文字通りの抱き枕にされた際には不審者かと焦ったものだ。もっとも、時間を問わない訪れは覚悟の上だったし、あまりにも気持ちよさそうに寝ている姿にほだされ、まあいいかと許容するうちに慣れてしまった。
 しかしながらその先に起こりうる問題に気づいていなかったのは、迂闊だったというべきか、甘かったというべきか。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。