朔夜のうさぎは夢を見る

いらえのことば

 けろりと言い放ってからあくびを噛み殺し、知盛は高坏を遠ざけるときょとんと目を見開いているの膝に遠慮なく頭を乗せる。
「え? あ、いえ、あの、知盛殿も行かれるのですか?」
「何か不都合でもあるのか?」
「いえ、そういうわけではありませんけど」
 大分復調したとはいえ万全ではない体調だとか、そんな暇があるのならそろそろ宴席にも顔を出した方が良いのではないかとか、言いたいことはそれなりにあったものの、既に決めたと雄弁に語る視線に言葉を飲み込んで、代わりに「ありがとうございます」と目尻を和ませる。
「ところで、もしや今からお眠りに?」
「せっかくの休みだ。体を休めず、一体何をせよと?」
 くつくつと笑って瞼を落とし、深く息を逃して知盛は笑む。
「子守唄を……。お前の声は、心地良い」
 宵闇に求めたことはあっても日中に求めるのは初めての要求に驚いたのか、小さく気配が揺れる。それでも、やわらかな吐息をはさんでひそやかに奏でられたのは知盛が求めたもの。そっと髪を梳く感触があり、穏やかな闇が四肢を包むのを感じる。水底にて眠るようだと、常々思っていた感慨の根拠を思わぬところで得たことをふと思い返し、小さく小さく笑ってから知盛は意識を手放す。


 懸念は鼻で笑うついでに吹き飛ばされ、推測は正しく現実へと姿を変える。つまるところ、の告白を聞こうが何をしようが、知盛は変わらない。人外の力があると告げたところでそれを厭いもせず使えとも言わず、人を殺したと言ってもそういう時勢だと流すのみ。
「私利私欲のために殺め、殺めること自体を目的とし、それに悦を覚えているならともかく……お前はそれを悔い、しかし己が己として生きるために必要な悪行であると認めたのだろう?」
 ならば別段、俺がどうこう言うことじゃないさ。
 食事の席で聞けば食べる気が失せると言われるだろう。酒の席で聞けばせっかくの酒が不味くなると言われるだろう。ゆえに問うたのは、まどろみより目覚めた己の膝の上。寝起きのため掠れた低い声が、ぼそりぼそりと言の葉を紡ぐ。
「それに、お前の言うとおり、お前の宿すその力は、いたずらに揮うべきではない……。人ならざる力は、人の世には極力齎すべきではない」
「人は、人の領分を守って生きるからこそ、人で在れると?」
「もっとも、神が何も言わずただお前に貸し与えたのだから、それは“お前の力”でもあるのだろうよ。好きに揮えばいい。あるいはお前のその意思こそが、神の意思に通ずるのやもしれん。……いずれにせよ、その力はお前の手の内にある」
 言ってあくびをひとつ。眠気は存分に宥められたのだろう。身を起こしながら猫のように伸びをして、とろりとほどけていた瞳の奥に鋭い光を取り戻しながら知盛は獰猛に嗤う。
「使いどころを、誤るなよ? ――力に驕るヒトになぞ、俺はもう飽き飽きしているんだ」
「心にとどめおきましょう」
 試すような、見定めるような、縋るような、願うような。獰猛でありながら野蛮ではなく、どこか高潔な、それこそ神の在り方とも譬えられるだろう深い瞳に、は静かに頷く。
 自分よりもよほど、この人にこそ人ならざる力を与えるにふさわしかろうと思う一方、人としての領分を超えるこの力を、きっと諾と受け取りはしないのだろうと確信する。何が愉しいのか、今度は瞳を細めてくつくつと喉を鳴らす姿に本当に猫みたいだとぼんやり考え、これ以上の気まぐれによって体を拘束される前にと、は夕餉の支度のためにさらりと裾を払って腰を上げた。


 宣言どおり、告白からさほど日をおかずに連れていかれた貴船の社で、神と対面するという、人生において体験し得ないと定義していた奇跡にまみえただったが、しかし、身に宿す力に関して特にこれといった手がかりの類を得ることはなかった。
 知盛に告げられたのと同じ内容を多少異なる言い回しによって繰り返され、疑問が解けたとすれば自分がなぜこの世界へ招かれたかというその一点のみ。ただ、元の世界に見捨てられたのではなく、より深くこの世界に求められたのだと。その言葉ばかりは純粋にの心を慰めるものだった。
 そして日常は繰り返される。女房としての仕事に明け暮れながら剣の鍛錬を繰り返し、腕が上がったからと練習用に与えられていた子供の修練用の刀の代わりに、の体格を考慮した一振りが与えられた。
 どうやら、それまでの努力を凌駕する、一種の才能の開花としか思えない戦闘能力の向上は、神の力の器であることへの恩寵であるらしい。剣を握るのかと問われ、それが身を護る手段であり自身の選択であると返したに、ではそれをお前の力とするといい、と。脈絡の読めなかった神の言祝ぎの意味を、はその日を境に格段に上達の速度が上がった己の剣技と勘の鋭さに嫌でも悟る。
 お前の身を護るために与えたつもりだったが、お前はアレを好まぬようだ。
 そう嘯かれた対象は、恐らくが必死になって暴発を食い止めていたあの己ならざる意識。それに乗っ取られた時のように軽やかに、鋭く、どう動けばいいのかを元から知っていたように四肢が奔る。知盛の手ほどきによって、埋められていた何かが暴かれていくようにひたすらに向上する己の戦闘力に、ありがたさを覚えながらも自分がまるで知らなかった一面を見せつけられているようで、は複雑な心境でもあった。


 知らない間は一切見えることのなかったあらゆるものが、自覚と同時に一気に目に飛び込むようになってくる。己に加護を与える神に対峙して以来、は地脈を読んだり風に潜む気脈の澱みを読み取ったりと、己の接する世界が一段深い次元に広まったのを知った。同時に、いわゆる時流のうねりというものを肌で感じ取れるようにもなった。
 すなわち、それまでぼんやりと察することしかできなかった知盛の気鬱の一端を、まざまざと感じ取れるようになったということでもある。
 至極つまらなそうな、窮屈そうな空気を撒き散らしながら参内から帰邸し、内裏の名残の一片さえ残すまいとでも言うかのような勢いで衣冠束帯を脱ぎ捨てる。それでも、身分が高いらしい知盛は仕事を多く抱えているようであり、同時に邸の主としての個人的な執務も山と積まれている。鬱陶しそうに狩衣を着崩し、無表情で黙々と文机に向かっている背中は、どう控えめに見積もっても苛立ちを雄弁に伝えていた。
 日が長くなり、緑が濃くなるごとに強まる様子をみせていた苛立ちがついに妙な形で爆発したのかとが思わず眉を顰めたのは、そんなある日のことであった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。