朔夜のうさぎは夢を見る

いらえのことば

「挙兵……ですか?」
 政の類にが関わることを好まず、何となしの世間話程度に言葉を交わすことはあれど、具体的な話など一切したことのなかった知盛が、唐突に寝酒の席でそんな話をはじめたのだ。
「一門に対する追討の令旨が下ったとなれば、もはや見逃すわけにもいかないからな……。せっかく、事が大きくならないよう、こちらも譲歩したというのに。融通の利かないことだ」
 吐き捨てるように、嘲笑うように、諦めるように。複雑に感情の混じりあった低い声を紡ぎ、知盛は喉の奥で嗤う。ひとしきり何かを蔑み、そして悼んでから杯を干し、振り返りついでにふと落とされた声音で、淡々と続ける。
「近く、発つ。此度はさほどの大きな戦にもなるまい。俺を大将に、重衡を副将につける。兵も相当数だ。それなりに、ゆとりがあろう」
「何か、手配するものや要りようのものはございますか?」
「お前を、連れていく」
 遠出をするからと多少の武具の準備はしたことがあるが、本格的な戦支度なぞはじめての経験。わからないままにしておくよりはと、素直に自分の領分をわきまえた質問をしたつもりのに、しかし返されたのはとんでもない決定事項だった。思わぬ切り返しにきょとんと目を見開き、言われたことを理解すると同時にすとんと表情を削ぎ落とす。それは、いつの日かと自身が願い、いつか来るだろうとずっと覚悟をしていた日の訪れを告げる言葉。
 表情の変化を愉しげにじっと見つめていた知盛は、そのまま薄い笑みを湛えた声で続ける。
「初陣とするには、ちょうど良かろうよ」
 からかうように、の覚悟を試す色合いの強かった声音が、瞬きをひとつはさんであっという間に自嘲の色に染め上げられる。
「ついでに、見知っておけ。我ら一門へと向けられた怨嗟の渦を。……身の振り方を改めるには、そろそろ最後の機会だぞ」
 うっそりと昏い笑みを刷く口元は酷薄な美しさを湛え、見据える視線の鋭利さが月明かりによく映える。そこまで言われて、はようやく自分がこのところずっと忘れていた、そして思い出さなくてはと胸の奥で焦燥に駆られていた案件に思い至る。


 問うべきか、問わざるべきか。逡巡はしかし、目の色だけで「どうした?」と問うてくる知盛を前にすぐさま諦観へと変わる。悩んだところで、この妙に敏い主には遠からず見透かされるのが関の山。ならば、今のうちに素直に問い質してしまうのがよかろう。
「あの、今さらかとは思うのですが、ひとつ伺いたいことがございます」
「聞こうか」
「一門、とは、その、どういった括りにあたるのでしょう?」
 あまりにも非常識なことが続いたためすっかり忘れていたが、懸念は決して消えていない。言葉を選びながら曖昧に問いかけたものの、しかし今度は焦点をぼかしすぎたらしい。言葉を続けろと無言で訴える視線に、は諦めて核心の一言を紡ぐ。
「知盛殿の、かばねはなんと?」
「……なんだ。察せていなかったのか」
 意を決し、急く思いを宥めながら問いかけたというのに、対する知盛は珍しくも瞳を見開き、驚きとくすぐったさを交えた様子でくすりと笑声がこぼす。喉の奥で殺されるのではなく、溢れるに任せてこぼし続ける声は穏やか。面はゆい、とでも表せばいいのだろうか。ふわふわとした思いを心の中心に抱え込んでいるような様子は、日頃身に纏う鋭い気配を霞ませるほどにあどけない。
 ひとしきり肩を震えるにまかせ、すっと笑いを収めた後に残ったのは切なさ。哀愁を、憐憫を、懐古を、秘めて揺らめく瞳の光は、儚いがゆえに美しい。
「我らが冠するは、桓武帝が裔、伊勢平氏が一門の名よ」
 ついと、歌うように紡がれたのはの懸念を強く裏打ちする言質。
「我が父、相国入道とは先の太政大臣、平清盛公その人……。相国様と、父上のことを呼んでいたゆえ、てっきりどこかしらで聞いたものと思っていたが」
 そうではなかったのか、と。最後は独り言のように呟いて、知盛は瞳の奥の色を深める。


 懸念が最悪の形で現実に取って代わられたことを知り、必死に内心の動揺を押し殺すに、しかし知盛の視線の意味を考えているゆとりはなかった。乏しい歴史の知識の中でも、その名前はあまりに有名に過ぎる。では、この先、この優しい人達は遠からず滅亡への道行きを辿るのかと。教科書ではたった数行で読み流すことのできた史実が、あまりにも重過ぎる予感として胸を締め付ける。
「負うものを知っても見失わぬと……それは、やはり名を知らぬがゆえの言葉だったのか?」
 だから、かけられた声の不穏なまでの静けさに、は息を詰めて視線を跳ね上げる。
「なれば、去れ。俺は、“俺”を見ないお前になど、興味はない」
 見やった先、見つめ返す視線は深く、暗かった。じわじわと闇を孕み、失望に呑まれていく瞳は正直であるがゆえに絶望的。そして、はそっと笑む。
「傍に在りますと、そう申し上げました。それに、守れない約束は、はじめからしない主義です」
 確かに、平家一門という名は重い。恐らく、知盛が考えているのとはまったく別の意味で、にとっては重過ぎる。しかし、希望はいまだ残されている。この世界は、の知る世界の常識から大きく逸脱している部分が少なくない。ならば、同じ道を辿るという保証はないのだ。
「わたしは知盛殿のお傍にあるために軍場に出ます。ですが、それが通じるのは知盛殿のみ。名目とはいえ、一門の兵が一人として陣に出る以上、名の意味を知らねば、と思っただけに過ぎません」
「……どうだか、な」
 前半は真意だったが、後半はこじつけだった。自身でも空々しいと思った言い訳はあっさり見破られたようだったが、鼻を鳴らす知盛の瞳は、いつもと同じ静かで鋭い光を湛えているだけ。少なくとも、触手を伸ばしかけた失望が誤解だという弁明が通じたことを察し、は小さく安堵の息をこぼす。


 何がどうなるか、その詳細は覚えていない。この先、この世界が自分の知るそれと同じ歴史を辿るかもわからない。だが、その只中にあり、たとえ没落の道を辿るとしても、そこにある人の傍にいたいのだと望んだ以上、覚悟からは逃げずにいようと改めて決意する。
「鞘は、刃と共に在るもの。ご同行の許可、謹んでお受けいたします」
「先が視えていて、なおもというならばもはや逃れる道はないぞ」
「それは知盛殿とて同じこと」
「俺は、お前とは負うものが違う」
 声に滲む憂いは明白だった。歴史の流れ、ではない。ただ時流として、知盛は一門の栄光に蔭りが差していることを見抜いている。その上で、一門が辿りうる滅びの道を察している。予備知識があるために愁う自分と、聡明さゆえに憂う主と。
 負うものが違う。その言葉の重みを、はひたすらに噛み締める。視えなければ、憂うほどに背負い込まなければ、きっと、もっと楽で気安い生き方を選べただろうに。一番苦しくて辛いだろう道を、それと知っていて選び取る優しさと強さは、きっと彼自身を殺してしまうだろうに。
「それがあなたの貫くと決めた道であり“殻”だというなら、わたしは鞘として“あなた自身”を負いましょう」
 滅びへの道が世界の定めた潮流だというなら、逃れることはできないだろう。だが、まだ決まっていない。そして、主は滅びを察しながら覆すために立ち向かうだろう。ならばもまた抗う道を選ぶのみ。わかりにくくも優しい主を、支え、守りたいと決めたのだから。
 言葉にしてみれば、その在り方はとてもしっくりと胸の底に納まった。なるほど自分はこうしたかったのかと、どこか他人事のように自分の願望を見つめながら、はそっと微笑む。
「逃げるのは嫌いです。特に、自分で定めた道から逃れることは、わたしの生き方を歪める要因となるでしょう。ですから、どこにも行きません」
「………酔狂な、ことだ」
 返されたのは喉の奥で殺された笑声。けれど、そこにはやわらかくあたたかな色が滲んでいた。
「褒め言葉と受け取らせていただきます。その酔狂さゆえに、わたしは“知盛殿”を見失わずにあれるのですから」
 しれっと返した言葉に目を細めて満足そうにを見やり、それから知盛は「寝るぞ」と言って腰を上げる。
 放り散らかされた酒器を簡単に片付け、その背を追いながらはそっと己の願いと覚悟をなぞりなおす。この、たった半歩道を違えただけで底なしの暗黒へと沈んでしまいそうな主のために、穏やかな休眠を供する鞘であり続けたいのだと。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。