朔夜のうさぎは夢を見る

いらえのことば

 知る権利があるとの主張に否やはない。伝えることにも、今さら否やはない。目の前に座す男が、今さら自分の抱える力を知って自分を忌避するとも思わない。それでもが躊躇ったのは、恐れたからだった。
 ただ、教えることによって、ひとりで抱えるだけですむはずだった闇に、このわかりにくくも優しい主が巻き込まれることが怖かった。そしりを受け、自分を引き金として不幸になりはしないかと、そう恐怖したのだ。
 決めたはずの覚悟も、言葉を音にするまでの躊躇いまでは拭い去れない。胸を焦がす思いを噛み殺し、唇を動かすよりも先にただ瞳を力なく揺らしたに、しかし。視線をわずかも外さずにいた知盛が、静かに続ける。
「惑うな」
 はっ、と。息を呑み、焦燥も躊躇も恐怖も、すべてを暴かれ、見透かされている錯覚には肩を揺らす。
「お前が憂うことなど、何もない。俺は、俺の知り得ることを知らずにあることが我慢ならないだけだ」
 それに今さらだと、小さく笑う知盛の声は軽い。
「狐憑きだとて巫だとて、異世界より参ったという話に比べれば、ささやかなもの」
 指摘はもっともであり、皮肉の裏側にある知盛の気遣いに、もまた小さく笑う。
「それも、そうですね」
「お前のその話を信じた俺が、今さら何を疑うと? ゆえ、明かせ。お前が抱えるその“力”とやらを」
「……お話しできることは、多くないのですが」
 穏やかな声に背を押されるように、はそっと、思い出と呼ぶにさえも近すぎる昔語りを紡ぎはじめる。


 がその力を自覚したのは、一人で着替えることにも慣れ、着付けの不自然さを住職に直されなくなった頃のことだった。子供たちに混じって細々とした雑用を片付け、薬草の知識を学び、近隣の村に遣いに出ることによって少しずつ生活に必要なあらゆる事項を学び、必死に毎日を送っていた頃のこと。何の変哲もないと、そう感じられるようになった日常に、ふと蔭りが差したのは時節ゆえと言えただろう。
「その日は、いつも以上に薬草を欲しがる人がたくさんいて、帰りが遅くなってしまったんです」
 日が傾き、今から寺に帰るのではあまりにも危なかろうと、一泊することを勧められた。そうして声をかけてもらえるほどには、は寺での生活に馴染み、村人たちとの間に信頼関係を築けていた。
 言われたことはもっともだが、素直に厚意に甘えるにはまだの感覚は世界に馴染んでいなかった。決して裕福とはいえない村で、冬に向かおうという今、食料の蓄えが塵ほども無駄にできないことは明らか。急げば大丈夫だからと、丁重に礼を述べて寺に向かった。きっと、その判断そのものが誤りであり、甘さだった。
「逢魔ヶ時と、そう呼ばれる時間帯でした。まだ日が暮れていないという甘えがあったんだと思います。山道で後ろから口を塞がれて、取り囲んでいる夜盗とおぼしき男達と目が合いました」
 それからのことは、よく覚えていないんです。
 ぽつりと呟いて、は伏せていた視線を、膝の上に揃えた自分の両手へと据える。
「恐かったことは覚えています。地面に押し付けられて、何かを言われて、とても嫌な気配で。きっと慰み者にされるのだろうことは察しがつきました。それで、とにかく頭に血が上って」
 次に意識がはっきりしたのは翌日の昼で、村の女の一人に付き添われて眠っていた。恐かったね、大丈夫だよ。災難だったけど、あんたのせいじゃないからね。そう慰められても、何があったかはわからなかった。


「その人の話では、わたしは村はずれの炭焼き小屋の隅に隠れるようにして気を失っていたそうです」
 裸足で、足の裏は傷だらけで、着物は乱されていて。何があったかは明白だった。襲われかけ、けれど未遂で何とか逃げ出してきたのだと。命があっただけでも儲けものなのに、よほど運に恵まれていたと、口々に慰められた。だが、にはそれが信じられなかった。
「よくは覚えていません。けれど、わたしは確かに頭が真っ白になって、自分の体が自分のものではないように動いたことを覚えています。相手の腰から刀を奪って、斬り捨てたんです。蒼い炎を纏った刀で、屍さえ残さずに」
 寺まで送ると申し出てくれた村人に素直に甘え、辿った道には多少の諍いの痕は見られたものの、血痕も、屍も、何も残っていなかった。
「しばらくは男性が恐くて近寄れなかったのですが、実際には何もありませんでしたし、村の人はみんな親切で、私はその恐怖をすぐに忘れました。それよりも、わたしは自分が自分ではないあの感覚が恐かったんです」
 混乱が治まり、自分のしでかしたことをもう一度確認するために山道を辿ったその日の夕刻。地に膝をつこうと、下草を掻き分けようとも何も見つからないことに諦めかけた頃、再びは夜盗に囲まれていた。
「化け物と、そう言われました。あの時、どうやら無事に逃げた人がいて、仲間を呼んできたらしくて」
 そんなことを言われても、も詳しくは覚えていない。しかし、逃げることはできず、そして逃げるわけにもいかなかった。
「わたしを殺して、それから寺を焼いて、村を焼くと言われました。復讐であり、それが応報だと。けれど、わたしはそれを認められませんでした」
 許せないと、そう思ったときには既に、頭の中は真っ白でした。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。