朔夜のうさぎは夢を見る

いらえのことば

 体を起こすことさえ思いつかずに目を白黒とさせているをしばらくじっと見下ろしてから、知盛は疲れたように息を吐き出した。そのまま体中から力を抜き去り、なんとも言いがたい表情で目を閉ざしてしまう。
「何か失礼なことをしてしまいましたか?」
「いや、問題はない。……お前、何も覚えていないのか?」
「覚えていないから問うているんです」
 不穏な気配に思わず上半身を起こし、ずりずりと褥に落ちた相手の腕はそのまま、妙に明るい視界に今度こそは蒼褪める。
「もしかして、もう日が昇って!?」
「とっくに天頂にかかっているぞ……。午の刻を過ぎた頃、だな」
 俺もそろそろ腹が減った。そう言いはするものの起き出す気配は微塵もなく、ごろりとうつぶせになって、あろうことかあくびをひとつ。
「俺とお前は、今日は物忌みだ。勤めは休んで構わん。……とりあえず、何かつまむものを持ってこい」
「え? あ、はい。かしこまりました」
 ありえない事態に思考が空転していたは、さも当然とばかりに申し付けられた用に、半ば反射的に居住まいを正して頭を垂れる。垂れてからさすがに違和感を覚えて憮然と顔を上げれば、流される方が悪いとばかりに知盛は喉の奥で笑いを殺している。
「拗ねるなよ……物忌みなどと称してはかの神も不快だろうが、あいにく、それぐらいしか妥当な理由が思いつかなくてな」
 くつくつと揺れる声で、しかし悪びれた風もなく知盛は続ける。
「とにかく、覚えておらんと言うならば説明はするさ。だから、まずは口に入れる物を持ってこい」
 それとも、お前は主を飢え死にさせる気か、と。からかう色を載せて見上げてくる深紫の双眸に「こちらで構いませんね」とだけ念押しをして、はとにかく自分の職分を全うするべく、まずは言ったところでどいたりはしないだろう主の目につかない几帳の奥に足を進め、局の外に出るための身繕いをすることに決めた。


 勝手知ったる他人の部屋とでも言うのか。廂を進むごとにかけられる気遣いの声に丁重に礼を返し、厨から水の入った提子やら軽食やらを調達して局に戻ったが見たのは、御簾も格子もすっかり上げきり、衣桁にあった衣を適当に羽織って庭を眺める知盛の姿だった。
「お持ちしました」
「ああ」
 かけた声にちらと持ち上げられた視線が、隣に座れと語りかける。するりと膝を折って高坏を主の目前に整え、自分も腰を落ち着けてから椀を差し出す。向かい合う形に座りなおし、まずは一杯。満たされた清水をくいと呷って喉を潤し、次に注ぐ一杯はゆらゆらと手の内でもてあそばれてから下ろされるだけ。急の言いつけのため、用意できた軽食は朝餉に供されるはずだった鉢物がいくつかだが、それを気紛れのようにつつき、ようやく知盛は口を開く。
「お前は、腹は減っていないのか?」
「お気遣いはありがたいのですが……不思議と。特に空腹は感じません」
「それも、かの神の恩寵か」
 珍妙なことだ。そうひとりごち、知盛は箸を置いて代わりに椀を取り上げる。
「昨夜、お前はその身に神を降ろした」
 唐突に、庭を見やったまま知盛の説明が始められた。
「お前をこの世界に招き、お前に加護を与える神だそうだ。……お前がその力を“狐憑き”などと称していること、半ば呆れておいでのご様子だったぞ」
 そこまでを一息に言い切り、しかしちっとも恐れ畏まった様子などみせないまま知盛は唖然と目を見開くを振り返る。


 それは、知盛が知るはずのないの隠された一面であるはずだった。告げた覚えはなく、ばれるような振る舞いをした覚えもない。叶うならば最後まで隠し通すつもりだった、けれど鞘になると決めた相手のために、の供せる最大の切り札になりえる強大な力。呪詛だの怨霊だのが跋扈する世界でも、きっと爪弾きにされるだけと察せたからこそ隠していたのに、いかにも愉快げな瞳で知盛は声を失っているを見やる。
「いつかお前の言っていた、血の香を知っていると、軍場に出れば戦う術を知るだろうと。その言は、その力を宿すがゆえのものだったのか?」
「………そのとおりです」
 愉しげに眇められてはいるものの、瞳の奥の眼光は鋭かった。は決して知盛を侮ってはいない。面倒だのだるいだの、何ごとも億劫だと全身で語るものの、知盛は愚鈍ではない。むしろ、何もかもが見えすぎ、わかりすぎるからこその倦怠感だと察している。誤魔化せるはずのない冷徹な観察眼に曝され、もはや隠し通すことはできまいと、観念と共に覚悟を決めるのは、そう難しいことでもなかった。
 の覚悟を察したのだろう。剣呑と言うには平坦な、無表情と言うには険しい声が厳かに命じる。
「余さず告げろ……俺には、聞く権利があるはずだ」

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。