いらえのことば
にこにこと笑う笑顔は艶やかで実に見目麗しい。しかし、反面内心がひどく読みづらいのは重衡にとっては有効な武器なのだろうが、周囲からしてみれば厄介な壁に他ならない。一体何を言いたいのかと、与えられた言葉をひとつずつ脳裏で繰り返し、やがて至ったのは自分がとんでもない粗相を働いたという可能性。
「申し訳ございません。大変お見苦しいところをお見せいたしました」
つまりそれは、その訪問さえ知らないを主の弟君と母君に見られたということである。あまつさえ、主の衣を枕と上掛けにして眠りこけているという醜態を。
身分だの主従だのというしがらみではなく、それは純粋にの失態であり恥である。羞恥以上の緊張に蒼褪めるのを自覚しながら慌てて頭を下げれば、いっそうおかしげに揺れる笑声が遠慮なく頭上に降ってくる。
「いえ、構いませんよ。胡蝶殿が付きっ切りで兄上の看病をしていらっしゃることは、我らとて知っています。母上も、ここまで親身に仕えてくださることを労っておいででしたよ」
「もったいなくもありがたきお言葉、身に余る光栄と存じます」
容認の言葉に多少は血の気が戻るが、いたたまれなさに情けなくなってくる。一応の言葉を返しながらも顔を上げることのできないの正面で、しかし、あろうことか膝を折る気配があり、伏せたままの肩にそっと指が添えられる。
「大丈夫、兄上はじきに目覚められますよ。母上がいらっしゃる前に、実は一旦お気づきになられて、少しばかり言葉を交わしました」
促され、言葉に弾かれてはっと視線を上げた先で、淡紫の瞳がやわらかく笑んでいる。
「ですから、しかとお休みなさい。疲れ果てて眠っておいでのあなたを、兄上は案じておいででした。あまり、病人に気を遣わせるものではありませんよ」
白磁の肌がかくもやつれておいでなのは、私としても悲しいですからね。真摯で厳かな、逆らうことを許さない強い言葉で確かに命じた後、ふと気配を和らげて重衡は付け足した。この、どうにも赤面せずにはいられない言葉を際限なく紡ぐのは重衡という人間の常であるらしい。つられて思わず頬を染めながら、しかしは己の領分を忘れたりはしない。
「……お言葉、しかと承りました」
三度、深々と頭を下げ、命令をかたどった気遣いに言葉にはしない謝意を向ける。そのまま「私は兄上のご様子をうかがったら、そのまま戻ります。気遣いは無用ですから、早く水を汲んでおいでなさい」と告げるやわらな声に了承の意を返し、いくばくか軽くなった足取りでは濡れ縁を渡った。
蒲柳の質を抱えているとはいえ、鍛え上げられた肉体はしなやかに強靭でもある。一旦目を覚ましたというならばもう心配はいらないだろうとの読みどおり、知盛はその日の夜にももう一度意識を取り戻した。わずかとはいえ重湯を口に含み、それまでつききりだったに、今宵からは自室で休めとの指示さえ出してみせるのはさすがの慣れであり矜持であろう。
幼い頃からの体質であるゆえ、当人としても無理の利く範疇をしっかり心得ているらしい。嫌な顔をしながらも文句を言わずに薬湯を啜り、後はひたすらに眠り続けて体を労わる。目を覚ましている間に様子見にやってくる弟やら乳兄弟を通じて下される周辺への指示の数々も見事であり、思いがけないところで執務を執り行う一面を目にしたとしては、日頃との落差にひたすら目を見開くばかりでもある。
そうこうして、件の宴の夜から数えて十日ほどで、知盛は無事に床を抜け出し、政務へと復帰した。無論、いまだ本復とはいいがたい。参内はするものの時間を最小限にとどめて帰邸し、時間を問わずに睡眠をむさぼってはすっかり落ちてしまった体力の回復に努めている。
それは、次々と贈りつけられる見舞いの品を捌くの背を見ながらであったり、白湯を運んだを抱き枕にしながらであったりと様々な方法ではあったが、つまるところかの宴の夜を境に、どうにも構われる度合いが高くなったというのがの偽らざる感想である。
確かに、かつてあまりにもひねくれた物言いしかしない知盛に、素直さが足りないといったような指摘をした覚えもある。まだ、女房として召抱えられる前のことだ。だが、これは少し違うだろう。屈託なく、気分の赴くままじゃれるように構ってくる姿は、あどけなくもあり調子が狂う。一体何があったのかと、問えば夢を見ていたのだと言う。
ぽつりぽつりと紡がれた、それはあまりに深い夢。そして、その夢の果てで何がしかの悟りを得て戻ってきたらしい主は、その先で得たのだという神の力の具現を手渡し、還りたいかと問うてきた。還りたければ帰ればいい。だが、帰らないでここにいろと。この世界で生きるのだと改めて宣言したに、満足そうに笑って知盛はそう乞うた。
お前がいる世界だから還ってきたのだ。お前は俺の手の届く場所にいろ。
いつになくはきと存在を恋われ、素直に嬉しいと感じたことはきっとばれているだろうとは思う。だが、それで構わない。あなたがいるからここにいる。それは、の側からも言えることなのだ。生きる場所を与え、生きる意義を見つけさせてくれた人。だから、どんな形であれ最後まで傍にいる。それを相手からも求めてもらえたことが、心の底から喜ばしかったのだ。
ふっと意識が戻る感覚があり、まず感じたのは安息香に混ざる伽羅の香りだった。その混ざり具合には馴染みがある。案の定、続けて感覚を四肢に飛ばせば温かく規則正しい鼓動を刻む何かに抱き込まれている感触があり、視界には縹色の織りの美しい布地が映る。
「覚めたか?」
そこまで認識したところで声をかけられ、反射的に振り仰げば、すっかり目覚めきった様子の深紫の双眸が気遣うように見下ろしていた。
目覚めを気遣われることなど初めてのことである。一体何がどうしたのかと、いまだ霞のかかる思考回路で記憶を辿るが、覚えているのは酒の肴にと剣舞を所望されて庭に降り立ち、思った以上になめらかに動く自分の四肢に夢中になったところまで。いつの間に酒の席を切り上げ、こうして枕と相成っているのか、まるで身に覚えがない。
「……聞こえているか?」
「え、ええ。はい」
眉間に皺が寄せられ、訝しげに問われたそれには肯定を返す。だが、どうにも思い出せないことは思い出しようがない。
「あの、知盛殿。どうしてこのようなことになっているのか、まるで覚えがないのですが」
思わず着衣の乱れがないことを確認してしまったのは、想像しうる限りの最低の粗相の可能性を否定したかったからだ。体に違和感はなく、着衣に乱れはない。ということは、飲んだ覚えさえない酒に酔って、一夜の過ちを犯したという可能性は却下。しかし、だとすれば何がどうしていつの間に眠ってしまったのかが一層わからなくなる。
Fin.