いらえのことば
眠りが深まるのを待ってから改めて人を呼んでからがまた大変だった。蒲柳の質ゆえ、唐突に倒れたり寝込んだりといった事態が珍しくもない知盛ではあるが、慣れた調子で呼んだ薬師は首を捻るばかりであり、容態は重篤。熱をどんどん上げ続け、一度も目を覚まさないまま日を重ねる主に、は枕辺でひたすら顔色を悪くしていくだけである。
こんな時、中途半端な知識は邪魔にしかならないと、つくづく己の身が恨めしくなる。寺で世話になっている折に、薬草の知識を学んだ。医者の真似事もしたし、それを活かしてささやかながら、知盛のために体質改善用の献立を考えたりもしている。だが、近代医療を当然のものとして育ったにとっては、そのどれもがひたすらもどかしいものでしかない。
ここにあの医療技術があれば、と。そう思うのは初めてではなかったが、これほど切実に思ったこともなかった。原因不明の高熱にうなされ、浅い呼吸を繰り返す知盛に、ができることは、汗を拭い、水を含ませ、貴重に過ぎる氷を砕いて熱を冷ます道具とすることだけ。この世界は、あまりにも死が身近なのだ。
生を強く実感するということは、死が近いということ。あなたはここで潰えてしまうのかと、膨らむ一方の不安に押しつぶされながら、寝る間も惜しんで傍らに侍るだけである。
寝不足で時折意識を飛ばしながらも看病を続け、時に勝手に運ばれていた己の局から這い出しては枕辺に居座り続けたことは自覚がある。しかし、まさかふと取り戻した視界の先に、向き合って寝息を立てる主の寝顔が写るとは予想できようはずもない。
声にならない悲鳴を必死に飲み込みながら身を起こせば、肩から落ちるのは伽羅香の染み付いた衣。頭を伏せていたあたりには、やはり同じく畳まれた衣がある。いずれも見覚えのあるそれは、知盛の持ち物であるはず。
もしや自分がうっかり眠ってしまっている間に意識を取り戻したのかと、横を向いている主の額にそっと掌を押し当てれば、それまでに比べて明らかに下がった体温が感じられる。
「……よかった」
まだ平熱とは呼べないが、高熱とも言わない。峠を越えたのだろうと、確信は安堵で塗り篭められた独り言となってぽつりとおちる。
きっと寝苦しくて身じろいだのだろう。褥に落ちてしまっていた濡らした布を拾い、そっと頭を上向かせてから水を張った桶を手繰り寄せる。すっかり水はぬるくなってしまっていたが、何もないよりはましだろう。音をなるべく立てないよう気遣いながら布を浸して絞りなおし、額に置いてから腰を上げる。
水を取り替え、新しい寝衣を用意した方がいいだろう。ついでに厨に経由して、重湯を用意してもらおう。もしかしたら、起こせば目を覚ましてくれるかもしれない。
次々にやるべきことを脳内で列挙し、慣れた仕草で踵を返す。病臥の折の知盛は寝所を塗籠の内と定めるため、時間はよくわからない。張り巡らされた几帳をすり抜け、音を立てないよう細心の注意を払って寝殿へと抜け出し、御簾越しに差す西日にもう夕刻も終わることを知る。
「胡蝶殿」
明るさが急に変わったため焦点のぼやけた視界が落ち着くのを待ち、さてまずは水を汲もうと、手水舎に向かうべく足を踏み出したところで、背中から呼びかける涼やかな声があった。無論、は声の主に心当たりがある。桶の中身を零さぬよう気をつけながらも慌てて振り返り、膝をついて頭を垂れるその隙に、ちらと確認したのはやはり主のすぐ下の弟君。
「頭の君様。おいでとは知らず、失礼いたしました」
「いいえ、構いませんよ」
兄上が嫌がるからと、先触れを断ったのは私ですからね、と。笑う声は静かに揺れて、そのまま穏やかに「顔を上げてください」と促される。
「そのご様子だと、兄上はお気づきに?」
「いいえ、眠っておいでです。ですが、熱も随分と引きましたし、きっと遠からずお目覚めになられることと存じます」
「そうですか」
相槌にはほっとしたような気配が漂っていた。出逢ってからまだそう日を経てもいないため、人となりとは把握しきれない。それでも、一日とおかず見舞いに訪れるのだから、きっと仲の良い兄弟なのだろうと判じている。
「実は、先ほど母上がお見舞いにいらしていて、私はお見送りをして戻ってきたところなのですが」
微笑ましいことだと、年上の男性相手に感じるにはいささか失礼なことをぼんやり思っていたは、だから、なにげなく告げられた言葉の意味を理解するのに暫しの時間を必要とした。
Fin.