朔夜のうさぎは夢を見る

かいなをのべて

 知盛はずるいのだ。の瞳を覗きこんでその心の最も深く、弱くて醜くてどうしようもない部分を抉るくせに、自分の心情を吐露する時には、滅多に瞳をみせてくれない。瞳に宿る光の強さを堅牢な檻に、あまやかな呪縛に変えるくせに、脆さをみせてはくれない。今もこうして底抜けの瞳を向けるくせに、けれど底までを覗かせない透明で堅固な蓋をして、瞳の一番奥の色を誤魔化している。
「還れと、これを夢だったと思って忘れてしまえと。そう言われて頷くような、半端な覚悟でわたしはここにいるわけではありません」
 言いながら、思い出される悔しさと怒りと悲しみに声が震える。傍に置いたことを悔やまれているのなら、それが悔しい。こうして生きた時間を忘れられると思われているのなら、それが悔しくて許しがたい。それが彼の欲求なのではなく慈愛と懺悔だというのなら、そう思わせた自分が、悲しい。
「わたしは何度も申し上げました。自分で選び、そして貫くのだと。その覚悟を認めてくださったのではないのですか? その上で、鞘として在れと、そう言ってくださったのではないのですか?」
 その上で、平家に帰れと。自分の傍らに戻れと。そう言ってくれたのは、知盛なのに。
「わたしが欲しいと、そう言ってくださったのは戯れですか? 還らないことを選び続けるわたしを、他の誰が乞わずとも恋い続けると、そう仰ったのは、偽りだったのですか?」
 それがどれほどの慶びだったのか。知らないと言うのなら、この胸を引き裂いて、心を丸ごと取り出して見せ付けてやりたいのに。


 もう言葉を絞り出すこともできず、は不覚ながらも靄のかかる視界で必死に知盛の瞳を見据えた。こんなところで泣きたくなどないのに、昂った感情は鎮まる気配を見せない。言葉などでは置き換えられない激情の渦に、感覚という感覚が麻痺し、涙腺など崩壊寸前だ。
「……お前に、偽りを述べた覚えは、ない」
 相変わらず内心を読ませない透明な瞳でじっとを見つめてから、知盛はぽつりと言葉を落とした。言葉を落とし、そして視線も落としてしまう。
「お前に与えた言は、すべて俺の真理だ。何ひとつ、虚言を弄したことはない」
「では――」
「だから」
 ならばどうしてあんなことを言うのかと。反駁しかけたを遮り、知盛は伏せた視線を歪ませる。
「だから、還そうと思ったのだ。……お前に傷を与えることしかできない、俺の生きるこの地上から、天に」
「……傷?」
 示された比喩の中身が思いつかず、は言葉を繰り返してその意を問う。
「熊野で、お前は俺の手を払った」
「……ッ!!」
 持ち上げられた瞳の奥に癒えない傷を見出し、は息を詰める。ああやはり、と。憂いが現実になっていたらしいことを悟り、まともに機能していない言語中枢を叱咤して、言葉という言葉をかき集める。だが、そうして集める言葉をがうまく制御できないうちに、知盛は言葉を重ねる。
「お前は俺を喪えないと言った。耐え難い絶望であると。そう言ったお前に偽りはなく、あの時のお前は……絶望に墜ちそうな瞳を、していた」
 言って指が持ち上げられ、ゆるりと伸べられる。なぞられた場面と同じように、穏やかに、やわらかに、の頬へと。けれど、指は頬に届く前に、知盛自身の意思によって下ろされてしまう。


「帰る場所は我らの許であると、そう言いながら、お前は帰れなくなった。拒むほどの傷を負ったのは、お前を軍場に伴った、俺の責でもあろう?」
 淡々と紡がれる残酷でやさしい言葉に、は必死に首を振ることしかできない。
 違う、そうではない。言いたいのに、伝えたいのに、言葉が音にならない。
 の心の動きまで、すべてを見透かして理解して、その上で「還れ」と言ったのだと。知ってみればなんという慈愛であることか。向けられていた想いの深さに感謝と歓喜が溢れ、そして再び悲しくなる。傷は負っても癒すことができる。その傷を克服してなお還ると、そう信じてもらえなかった自分が、あまりにも不甲斐ない。
「ちがい、ます……」
「知っている」
 喘ぎながらも何とか紡いだ言葉に、知盛はふと瞳を和ませた。
「お前はそう言うだろうな。……すべては己の選択であり、覚悟であり、道である、と」
 わかっている。そう理解を重ねて、続けて知盛は逆説の言葉を選ぶ。
「だが俺も、俺の責だと、そう思った。それが俺の選択であり、覚悟であり、道の行き着いた先であったと」
 降ってきた言葉に耐え切れず、ついには眦から涙を落とした。恥も外聞もなくしゃくりあげながら、掠れた声で何度も「違う」と訴える。


 どうしてこの人はこんなにも優しいのか。が自分の選択だと、そう言い切る意地と覚悟と矜持を認め、理解し、それでもなおと関わった自分を責める。そうやって何もかもを背負い込んで、自分に帰結させてしまうから、彼は何ひとつ投げ出せない。苦しんで、傷ついて、もがいて、絶望しながらも自暴自棄にはなれない。
 なんと優しい人。なんと不器用な人。だから彼は楽な生き方を選べなくて、苦しくて辛い道を、誰にも文句を言わずに、誇り高く踏みしめている。あらゆるものを見透かし、その上であえて選び取り、その道を己の往くべきそれと定めている。
 そう知って、そう見極めたから、傍にいたいと思った。支えたくて、守りたくて、安眠を供せる自分が誇らしかった。
「ちがう、違います」
 だから違うのだ。知盛がそう選ぶのは知盛の意思。はその意思を否定しない。選び、思うのならば思えばいい。ただしは、その隣で何度でも、それは事実ではないと、知盛の結論を否定する。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。