朔夜のうさぎは夢を見る

かいなをのべて

 黙々と足を進める知盛の背中に、少なからぬ不機嫌と苛立ちの気配を読み取って、は気分がますます沈むのを感じながらゆっくりと足を運ぶ。儀式の後に行われた捕虜の交換においても、見届け役として顔をみせはしたが、決して知盛はのことを視界に映そうとしなかった。その頑なで一貫した態度にこそ知盛の定めた道を見たようで、はいたたまれなくなる。
 宴席で舞を、と。その話を持ってきたのは、重衡だった。平家に帰され、けれど主であるはずの知盛が拒絶の姿勢をみせるものだから行き場のないを引き取ったのは時子であり、楽しそうに衣裳を揃えてくれたのは清盛。あれよあれよという間に身支度を整えさせられ、何事かと思うの許に、重衡はどうやって入手したのか、が自室の唐櫃に大切にしまっておいた舞扇を持って現れたのだ。
 虜囚の身だったのだから、めでたい席に侍るわけにはいかないと拒むに、重衡はこともなげに「院のご所望です」と嘯いた。さらに、そっと顔を寄せて続けたのだ。兄上とお二人でお話できる場を、設けて差し上げましょう、と。


 弁慶に励まされた。九郎も望美も、梶原邸に出入りする、事情を知る面々に必死に励まされた。事情を知らない面々にも近づく和議に「よかったですね」とあたたかく微笑まれた。
 何とか諸般の雑事をかいくぐって顔を出したらしい将臣にも励まされ、となれば事情が重衡達にも筒抜けであることは覚悟していたが、こうも真正面から励まされ、背を押されるとは思っていなかった。
 だから、覚悟を決めたのだ。きっと、これが最後にして最大の機会になるだろう。ならば少しでも残る悔いが少なくなるように、あの日弁慶に言われたとおり、思いの丈をすべてぶつけてみようと。
 だが、いざ当人を目の前にしてみれば足が竦む。拒絶の色濃い背中を見れば、なおのこと。自分を加護する神がそっと背を押してくれる風は感じたが、それでも哀しみは抜け切らない。先ほどの舞は、だって、別れを惜しむような、そういう切ない情に濡れていた。


 ひたと止まった気配に慌てても足を止め、俯けていた顔を持ち上げる。
「……ここで、いいのか?」
 気づけば先導の女房も姿を消しており、見覚えのある御簾の絡げられた部屋の前で、知盛がを振り返っている。
 静かな瞳だった。久方ぶりに月明かりの下で対峙したからだろうか。見慣れていたはずの姿が新鮮で、思わず魅入りながら、は思考の隅で必死に記憶を手繰る。静かな、けれどそれは嫌な瞳だ。あの瞳は好きではない。しばらく、彼のあんな瞳は見ることがなかったのに。
「いいなら、俺は戻る。重衡には、先に帰ったと伝えておけ」
「お待ちください!」
 返事がないことに焦れたのか、もとより聞くつもりもなかったのか、知盛は吐息に交えてそう言い置いて、を追い越して来た道を戻ろうとしてしまう。それを反射的に呼び止め、呼び止めるだけでは足りずに袖を掴んで引き止め、巡らされた冷たい視線に怯みながらもはもう一度「お待ちください」と言葉を重ねる。
「なんだ?」
「話を、聞いてください」
 底のない、光をすべて飲み込んでしまったような、昏い瞳。ああ、そうだ。これは、まだの手が知盛に届かず、の声が知盛に響かなかった頃の瞳。何度となく切り離されそうになり、そのたびに食い下がって、そしてようやく拭い去ることができたはずの、失望と諦念に似たる色。似て非なる、あの色よりももっと深くて絶望的で、遠い色。


 袖に皺が寄ることなど、意識の外だった。とにかく、ここで手を離してはいけない。ここで別たれてはいけない。それだけを思って必死に繋ぎとめるに何を思ったのか、知盛は小さく「離せ」と言って掴まれた袖を視線で一撫でする。
「お願いです。話を――」
「聞く。聞くから、離せ」
 大儀そうにの声を遮り、そして知盛は袖をゆるりと払いながら床板に腰を下ろす。
「文句でも、恨み言でも、何だって聞いてやるさ。……短くは、終わらんのだろう?」
 お前も座れと目で促し、知盛は底抜けの透明な瞳をに据える。応じて頷きながら、もまた腰を下ろしてひたと知盛の瞳を見つめ返す。
「で? 話とは、なんだ?」
「先日のお言葉には従いかねますと、そう申し上げたく」
 文句や恨み言とは、こうして自分が戦乱に身を投じたことへの八つ当たりを示すのだろう。すべて言いたいことを言って、それでさっさと天に還れ、と。雄弁に語る瞳に真っ向から対峙して、は凛と声を張る。

Fin.

back --- next

back to 遥かなる時空の中で index
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。