かいなをのべて
涙で曇る視界を袖で強引に拭い、は知盛の瞳を真っ直ぐ見やる。言葉をうまく積み上げられる自信はないが、知盛はいつだって、の心の最奥を瞳から読み取ってしまう。どうせならその能力をこの場でも遺憾なく発揮してくれと願いながら、心をまるごと明け渡す。
「その道を辿ったとしても、でもわたしは帰ることを望みました。知盛殿のお傍に還ることを望んで、選びました。傷を負っても、癒せます。傷のひとつやふたつでどうこうなるような、そんなやわさは持ち合わせていません」
まるでこれでは喧嘩を売っているようだと、そう思いながらも、は言葉の強さを緩めない。
「わたしに傷を負わせたと、そう思うのなら、またお傍に置いて、癒えたことを確かめてください。癒してそれで還りたいと願ったわたしの思いを、否定しないでください」
「………天に還れば、このような傷、負わずにすむ」
「わたしの還る場所はあなたの傍です。わたしは、あなたの鞘として生きることを欲したのだと、そう言いました」
ようやく揺らぎをみせた知盛の瞳と声に畳み掛け、は宣する。
「あなたを見失わないと、そう誓いました。あなたへの誓いと成した欲求を、わたしは決して譲りません」
それこそははじまりの言葉。二人が互いを正しく認識し、その存在を預けあうようになった、根源の誓い。
虚を衝かれたように目を見開き、珍しくも驚愕を前面に押し出して沈黙を保っていた知盛が、惑うように眉根を寄せる。
「馬鹿が」
「一番大切なものを見失わなければ、それで構いません」
「その頂に、俺を据えると?」
「刃は鞘がなくとも存在を失いませんが、鞘は刃がなくば意義を失います」
断じたに、今度こそ深々と溜め息をつきながら「馬鹿」と繰り返し、知盛はおもむろに指を持ち上げる。
「俺の手を払ったお前に、俺が何を思ったか、教えてやろう」
体温を感じるほど頬の近くに寄せ、けれど知盛はに触れようとしない。何かを問うように、猶予を与えるように指を宙に留め、知盛は自嘲の奥に激情を宿した瞳をに向ける。
「――いっそ、この手でお前を殺めてしまいたいと思った」
単調な声は、その静けさこそが恐ろしい。静穏だからこそ際立つ真実味と想いの激しさに、は静かに息を詰める。
「俺を拒絶するお前など、認めない。そんなお前は認められない。だから、いっそのことこの手でお前を屠りたいと、そう思った」
深紫の瞳の中にあった蓋は、もう見当たらない。底なしの激情が、遠慮容赦なくに向けられ、その神経に突き刺さる。
お前を失いたくないから、お前を殺してしまいたいと思った。だが俺はお前を喪えないから、お前を殺せばきっと、俺は狂うのだろう。
「喪いたくないのに、殺めたいと訴える。……己でもなかなかに破綻した思考の持ち主と自覚はしていたが、あれほどの矛盾と恐怖は、はじめて知った」
言いながら痛みに歪んだ瞳が、の意識を束縛する。呼吸をすることさえ憚られる緊張の中で、そしては己の頬に触れるぬくもりを知る。
「俺は、いつこの狂気が俺の理性を食い破るのか、自分でもわからん」
あまりに静かな声で、あまりに物騒な言葉を紡ぎ上げながら、知盛はの頬に指を滑らせる。拘束というには弱すぎるやわらかな仕草で、涙の痕をゆっくりと辿っていく。
「お前を傷つけたいとは思わん。喪いたくもない。だが、再びお前が俺を拒絶すれば、そのとき、俺はきっと狂気にこの身を明け渡す」
真っ直ぐに、瞳を覗きこむ深紫の視線は、今はただ静かで真摯。
「それでもなお、お前は俺の鞘であると言うのか?」
向けられた問いは、厳粛。これが最後の機会。これを逃せば、きっと自分はお前を天には還さない。そう語る瞳に、はゆるりと口の端を吊り上げる。
「許される限り、ここで生きると申し上げました」
言って眦に留まっていた指に自分の手を押し当て、泣きすぎて嗄れてしまった声で、は誓う。
「わたしは、あなたの“鞘”です。最後まで、あなたの傍で、あなたの存在を預かりながら、あなたを見失わずに在り続けます」
じっと、逸らすことなく真摯で厳かな瞳がを見つめ、そしてゆるりと和む。それはそう遠い過去というわけでもないのにひどく懐かしい、まどろみを求めての許をおとなう時の、穏やかに寛げられた知盛の許容。
「ならば、俺も改めて乞おう」
声は穏やかに凪いでいて、けれど深くて、どこまでも真摯だった。
「ここにいろ……。この世界の、この俺の傍らに。お前を恋い続ける俺の傍にこそ、在り続けてはもらえまいか――」
滅多に紡がぬ名を、それは愛しそうに、大切そうに、深く深く紡いだ知盛の双眸に、じわりと力が篭められる。
「俺は、お前が欲しい」
底知れぬ強さの向こうに切なさを滲ませた懇願に、はしかと頷く。本当は言葉にしたかったのに、声は嗚咽に掻き消されてどうしても出てこない。ただ、涙に曇る視界でも瞳を逸らすことはできなくて、どうしようもなく泣きながら、精一杯に笑って頷く。
見たこともないような無邪気なあどけなさと、見知った深い慈愛を混ぜ合わせた表情で、知盛は微笑んだ。微笑みながら、膝に置かれていたもう片方の手も持ち上げ、の肩を抱いて自分の胸元へとその頭を落とし込む。
「お前、滅多に泣かないくせに、泣き出すと止まらんのか」
仄かな笑みと慈愛に揺れる声で呟き、頬を包んでの顔を上向かせる。
「悪くはない、が……好くもないな」
ゆるりと、無骨な指がやさしくやわらかく頬を這い上がり、眦の涙を掬う。掬ってもなお溢れてくる涙に呆れたように、困ったように溜め息をつき、知盛は言う。
「笑え」
夜空には、そろそろ頂点にかかろうかという銀鏡。吹く風は春の気配を含み、どこからともなく薄紅色の花弁を一枚、二枚とつれてくる。それらを背に、知盛はがこれまで見たことのなかった、一番綺麗な貌で、笑う。
「涙を拭うに否やはないが、俺は、お前が悲しむ姿は見たくない」
こんなにも美しい人に、こんなにも綺麗な笑顔でそう乞われて、拒絶できるはずがない。つられるようにして笑みを返しながら、は願う。叶うなら、自分もまた、彼にみせた中で一番の笑顔を浮かべられていればいいと。
Fin.