かいなをのべて
許しを得て舞台を降りる望美と入れ違いに、別室で控えていたらしいが簀子を渡って姿をみせる。裳裾を引くその挙動のひとつとっても、いたく堂に入った姿であり、改めて、望美はがこの世界で生きると宣した覚悟と思いの深さを知る。
ざわめきが広がったのも、無理からぬことだろう。捕虜の交換は、貴族の目に触れさせるようなものではない。そうなると必然的に、噂に名高き月天将の姿をじかに見るのが初めてという存在が大多数を占めるのだ。
あくまで舞手という立場を貫くつもりだったのか、は宴席に参加している両家の女性達とは違い、顔を隠すような真似はしていない。まっすぐに顔を上げ、凛とした視線の強さを惜しげなく振りまいたまま、澱みない動きで舞台へと上がる。
同じように舞台へと向かう知盛と席に戻る途中にすれ違った望美は、ちらと流された視線に含まれている「お前の仕業か?」という疑問に、表情が凍らないようにするのが手一杯だった。やはり彼は、その瞳こそが最も美しい。鋭い眼光を恐れると同時に賛美して、だから望美はにっこりと笑い返してやるのだ。
ざわざわと、取り留めのない噂と評とが飛び交う中、何をどこまで知っているのか、院は暢気に重衡に声をかけている。
「月天将の正体は、かつて噂に聞いた蓮華の君とのことだが、まことか?」
「院のお耳に偽りを入れます不届きものがあろうはずもございません」
「では、アレが中納言の囲いし妙なる胡蝶というわけか」
その問いに重衡が肯定を返した瞬間、主に貴族達の舞台を見る目が一気に色を変えた。好奇と驚愕と、そして好色と。値踏みの敷居が見る間に跳ね上がったことを感じて、望美は思わず将臣の袖を引く。
「ねえ、大丈夫かな?」
「心配するなって。胡蝶さんも知盛も、舞の腕は相当って聞いてるぜ」
「だが、思いのほか周囲の反応が凄まじいようだが……」
「ああ、そりゃ仕方ねぇよ。“蓮華の君”は、貴族の間じゃ有名人らしいし」
そうあっさりと九郎の気遣いをも一蹴し、将臣はただ静かな瞳を舞台に向ける。
「いいから信じて見とけよ。あの二人の舞はな、その辺の奴らに真似できるような代物じゃねぇよ」
瞳の奥に湛えられているのは、信頼と郷愁。そして、壊れやすい、けれど尊いものを見つめる表情。その静かな熱につられるようにして望美が視線を舞台に戻したところで、楽士への指示が終わったらしい知盛が舞台に上がり、二人は言葉を交わすこともないまま同じ動きで舞扇を広げる。
奏でられたのは重衡が前に言っていた柳花苑であり、覚えのある振りで、舞台上の二人はくるりくるりと袖と舞扇を翻す。かつての夏の熊野で望美が知盛と柳花苑を舞った時の感想は、呼吸が重なるとのひとつに尽きた。自分たちは同じだと言われた生田の森では彼の言葉を否定したが、それは嘘ではなかったと思ったのが、実はあの夏だったのだ。
呼吸が重なり、動きが重なり、そして同じものが視えた気がした。結局、あの知盛とは目指すものが違い、望美は彼を壇ノ浦の海に見送ることになったけれど、そこには不思議な理解と納得が残された。それは、それまでのどの壇ノ浦でも得られなかった静かな感情で、そして望美は知盛に与えられた言葉の意味を理解した。
自分達は、それぞれに目指すもののために決して道を譲らない者同士。目指すところも寄る辺も信念も価値観も、何もかもが違うけれど、その根源が似ている、鏡写しのような存在。
だが、今の知盛がと舞う柳花苑は、重なるというよりも隣り合うという印象だった。背を、肩を預けあい、離れても惹かれあう。まるで、二人の間には不可視の糸が繋がれているかのように、ぴたりと動きをあわせて彼らは舞う。けれど、二人の動きは鏡写しではない。導き、託し、支え、包み包まれる。穏やかであたたかくて、何ものにも変えがたい切ない絆が、ひしひしと伝わってくる。
楽が終わり、舞い終わった二人が持ち上げていた袖を下ろすのを惜しむように、風が吹いた。その風に乗ってまだ蕾しかついていないはずの桜の花弁が舞い踊り、驚愕の視線が次々に向けられた先には、まさに花を開いていく一本の桜木が立っている。
「望美、お前の仕業か?」
「ううん、違います。けど――」
熊野で舞った時の奇跡を思い出したのだろう。押し殺した声で問う九郎にゆるりと首を振り、望美はそっと微笑む。
「きっと、貴船の神様の贈り物です」
吹く風が清々しい水の気を多く孕んでいることはわかる。だからきっと、これはを加護する神の言祝ぎであり、励ましなのだろう。かの神は言っていた。彼女のその最も深い願望を叶えるし、彼女に限らず、その願いが本物か虚勢なのかを見抜くことができると。だから、これはと知盛への、かの神からの声なき助言。
「お茶目な神様だな」
「だが、優しき御方だ」
軽やかに嘯く将臣の声も、応じる九郎の声も笑っていた。そして自分も頬が緩んでいるのを感じながら、望美は舞台上の二人を見やる。それぞれに背後の桜木を振り仰ぎ、そして同じように北の空を見上げたのだから、あの二人もまた、自分達の背を押した存在を感じていたことだろう。
Fin.