かいなをのべて
諸々の取り引きが完了し、儀式は幕を下ろした。頼朝や政子、九郎をはじめとした現時の中枢人物達は六条堀川に、残る景時や弁慶、望美達は六条櫛笥小路に引き上げ、宴席のための準備に入る。
和議の一環として行なわれた捕虜の交換によって、は平家へと戻っている。舞台上で見かけた知盛は、さすがに院の御前とあっては態度も改まり、実に優雅で威風堂々とした公達ぶりを見せつけていた。もっとも、それでもどこか飄々とした風情は抜けきらず、掴めない人物だとの印象は否めない。内心の思いがついつい表面にすべて表れてしまう望美からしてみれば、そうして完全に猫を被られてしまうと、その思惑などまるで読めないのだ。
政子が連れてきたという女房が派遣されて身支度を手伝ってはくれるのだが、今朝の神饌苑に赴く前といい、数少ない正装の折には必ずが手伝ってくれていた。洋装に馴染んだ現代人ならではの戸惑いを完全に把握した上での手助けと、それがまるでわからない手助けとでは、世話を焼かれる側である望美の苦労も段違いである。
どうしてそんなことをするのかと、予想外の動きをされて戸惑う女房達の無言の訴えに冷や汗をかきながらなんとか身繕いを終えた頃には、これから宴席に赴くのが嫌になるほど疲れ切ってしまっていた。
もっとも、女房達に示された推定所要時間よりも長めの時間を見越し、早め早めに仕度をはじめた甲斐はあったらしい。予定よりも大分時間を使ってから一息つけば、もうそろそろ邸を出なくてはならない刻限である。
「お前もそうやって着飾っていれば、貴族の姫に見えないこともないんだな」
と、迎えの牛車に乗ってやってきた九郎は望美を見るなり実に失礼な感想をのたまってくれたが、望美が何を言うよりも早く弁慶の無言の鉄拳制裁にて黙らされていた。
かくいう九郎も、そうして見慣れぬ直衣に身を包んでいれば、どこぞの公達の青年に見えないこともない。むしろ、法皇の周りで媚びへつらっている公達連中よりはよほど清々しい、よい公達ぶりのような気もする。もっとも、暴言への返礼として、そんなことは言ってもやらないが。
「九郎さんも着替えたんですね。さんが仕立てた直衣じゃないんですか?」
「さすがに、想い人がいると知ってなお、その相手のいる席に着ていけるほど厚顔無恥ではないぞ」
そういえば、和議の席でも九郎はの仕立てではない衣装に身を包んでいた。和議のための協議やらそれにまつわる宴席やらには散々着ていたのだから、気に喰わないというわけではないのだろう。では何か別の理由があるのかと、そう思っての質問には、思いがけず細やかな機微を気にした返答が与えられる。
「そういうのって、まずいんですか?」
そもそも、相手の着衣を見てそれを誰が仕立てたかを見抜くなど、とても人間業とは思えない。きょとんと目を見開いた望美に、九郎は生真面目に答える。
「仕立てがわかるかわからないかはともかく、気持ちの問題だ。俺は、人の恋路を邪魔するつもりはない」
「そもそも、仕事でもないのに女性が男性の衣を縫うというのは、夫婦間での遣り取りなんですよ」
きっぱり言い切ってくれた九郎の心意気はわかるが、その根拠がわからない。傾げたままの首が戻らないことを見て取ったのか、苦笑混じりに弁慶が横から口をはさむ。
「知盛殿に知れれば、九郎はめでたく間男に昇格というわけですね」
「ああ、そういうことですか」
とんでもない称号に慌てて否定と反論を繰り広げる九郎はさておき、望美はようやく納得を得る。それは確かに、特にこれから彼女らが企てている内容を鑑みた上で、不安要素になりうる素材である。
さすがに「和議が成ったから仲良くしろ」と言われて、そのまますんなり両家のわだかまりが解けることはない。宴席の会場となった法住寺殿に集った源平両家の関係者と貴族達は、表面上は穏やかに取り繕いながら、けれどどこかぴりぴりした空気を殺しきれていない。ただでさえ礼儀作法に自信がなくて神経を尖らせている望美は、その空気が辛くて辛くて仕方がない。
八葉と白龍も同行してくれていたのだが、招きがないという理由で別室に待機している。この場で望美の味方となりうるのは、九郎と景時、そして平家側の席で酒を呷っている将臣、知盛、重衡だけ。その彼らも、それぞれに自分の仕事で手がいっぱいの様子である。一人の例外を除いて。
席次が崩れてもなおろくに席を動かず、院は招きいれた白拍子の舞にばかり目がいっている様子の中で、ふらりと動いたのは将臣だった。慣れた様子で直衣の裾を捌き、席が崩れると同時に望美の近くに来てくれていた九郎の許に歩み寄る。
「よう、御曹司殿。呑んでるか?」
「かくいう還内府殿も、さして杯が進んでいないように見えたが?」
「せっかく神子様が来るって聞いたからな。その酌で、お前と飲み交わそうかと思ったんだよ」
言いながら手近な提子を持ち上げ、ろくに中身が入っていないことに肩眉を跳ね上げると「誰か」と声を上げて控えていた女房を呼ぶ。
「まあ、まずはこの和議のために尽力くださった神子様に、杯を捧げるとしようか」
「いいな。では、お前の杯は俺が満たそう」
すぐさま用意された新しい提子を手に互いの杯を満たし、そして目を見交わしてから将臣が望美に杯を持つよう告げる。
「え? でも、私はお酒は……」
「わかってるって。何のために俺がわざわざ提子も持って移動してきたと思ってんだよ」
未成年であるということもあったが、望美は自分があまり酒に強くないことを知っている。下手に酔いたくはないという思いもあって躊躇したのだが、将臣は心得た様子で持参した提子を持ち上げてみせる。
「恃んで茶を用意しておいてもらったんだ。これならいいだろ?」
「うん。それならいただきます」
耳慣れない口調混じりに言葉を交わす二人を不思議な思いで見つめていたのだが、こうして簡単な遣り取りの時間を経ただけでも、宴席に集う面々の視線が痛いほど突き刺さるのを感じる。いつの間に打ち合わせをしたのか、それとも即興なのかは知らないが、これが源氏の御曹司と平家の還内府によるパフォーマンスであることを見抜けないほど、望美も平和な頭の持ち主ではない。
Fin.