朔夜のうさぎは夢を見る

まといしよろい

 そっと膝を進めて互いの距離を縮め、弁慶ははっと持ち上げられた驚愕の瞳を覗き込み、はんなりと微笑んで顎を引く。
「誰だって、哀しい思いはしたくありません。同じように、誰かを大切に思えば思うほど、その人には悲しい思いをしてほしくないものです」
「そんな、わたしは――」
「辛くなかったとは、言わせませんよ」
 言い差したを遮り、弁慶は有無を言わせぬ強さで返す。
「そんな馬鹿げたことは言わせません。少なくとも僕は、あなたが“辛い目”にあったがために、最近まで必死になって望美さん達の考えた“りはびり”に取り組んでいたことを知っています」
「……ッ!」
 指摘に、は息を呑んで眉を顰める。それは確かに違えようのない事実であるが、そこに知盛は関係ない。強いて言うのなら、捕虜になどなってしまったことが悪いのだ。だが、弁慶は譲らない。
「そうでなくとも、戦に関わることは、少なからず辛いものです。僕達でさえそうなんですから、戦乱のない世界で生きていたというさん達が辛くなかったはずがないことぐらい、簡単に想像がつきますよ」
「ですが、それは弁慶殿も同じだと、そう仰ったではありませんか」
「僕達は、そう生まれついたんです。こればかりはどうしようもありません。そして、あなた達は違う。これも、どうしようもないことなんです」
 だから、その悔いは覆しようがないのだと。残酷に言い切って、弁慶は口を噤む。


 生まれた世界の違いが原因だと言われてしまっては、には返す言葉もない。それこそ、どうしようもないのだ。
「でも、その辛さを抱えてもなお傍にいたくて、頑張ったのでしょう? そのことがわからない方でもないと、僕は思いますよ」
 唇を噛んで俯いてしまったに、そして弁慶はぬくもりを取り戻した声でやわらに告げる。
「これも憶測ですけれどね。知盛殿は存外、不器用なご様子。悔やむほどにあなたを大切に思い、そしてその思いが深いからこそ、これ以上、どうしていいかがわからないのでしょう」
 言って宥めるように肩を軽く叩き、さらに弁慶はとんでもないことを言い出す。
「それに、こういうお話はやはり、ご当人同士できっちり腹を割って話し合っていただくことが肝要です」
 外野にすぎない僕達が下手に口出しをしてこじれさせるのも、馬に蹴られるのもごめんです。あまりにも真剣な口調でそんなことを言われたものだから、は思わずぽかんと目も口も開けたまま、弁慶のごく真面目な笑顔を見返してしまう。


「僕に先ほど仰られたことと、あとは、そうですね。どれだけ知盛殿を思っておいでなのかを、ぶつけてごらんなさい。言いたいことを全部吐き出して、その上でなおとあなたを拒まれるのなら、その程度の男なのだと、あなたから捨てておやりなさい」
 あっさりとのたまい、弁慶は一拍ほど遅れてから頬から耳から、顔中を真っ赤に染め上げたに、今度こそ朗らかに笑う。
 年齢の割に初心なことと、思う一方でそれも当然かと納得する。彼女こそは京中の貴族が暗黙の了解にて手出しを控えていた稀なる花の蕾。新中納言殿ご寵愛。その能書きの威力をまざまざと思い知り、だったらさっさと有言を実行しろと思う。
「あなたほどの素敵な女性なら、引く手数多ですよ。もちろん、僕も含めてね」
「え、あ、あの……っ!?」
 もっとも、惚れた腫れたと自覚のない、あるいは自覚から必死に目を背けようとする相手をこうして肴にできるのは平和になった証のだと、笑える自分は嫌いではない。無論、この笑い話を肴に、めでたく結ばれた恋人の噂を聞く未来こそが最も望ましい平和の象徴なのだろうが。


 正月の祭事がひとまず落ち着いた頃には、源平双方から和議に出席するための人間も京に揃い、後は当日を待つばかりである。年明け早々、陰陽頭が自ら吉日を占い定めたという和議の日取りは市中にも知れ渡っており、日が近づくにつれて嫌でも高まる興奮と期待に、この戦乱がどれほどの規模でもって国中に影響力を及ぼしていたかがひしひしと知れる。
 大晦日の夜、梶原邸に現れて倒れた政子は、翌日には目を覚まし、六条堀川の邸へと無事に帰還していた。何があったかはまるで覚えていないらしいのだが、己の内に宿っていた神が消えていることに、すべてを悟ったのだろう。特に口止めの必要もなく、また九郎と景時が上京してきた頼朝の許に報告に上がった際には、同じ席に控えてその報告に偽りがないと宣したともいう。
 かくて日々が順調に過ぎ行く中、心穏やかでないのは望美であった。
「どうしても? どうしても着なきゃダメですか?」
「往生際が悪いぞ。大体、お前が自分で了承したことだろうが」
「知りません! 気がついたらそういうことになってたんです!!」
「だから、それが了承ということだ。断らなかったことに変わりはない。諦めろ」
「九郎さんの横暴!」
「お前が重衡殿にアホみたいに見惚れていたのが悪いんだろうが!」
 一歩も譲らぬ議論を繰り広げる二人のいる部屋には、色とりどりの装束が揃えられている。
「大体、院が主催される宴だぞ? なぜ正装なしで構わないと考えられるのかが、俺には理解できん」
「構わないとは思ってません。ただ、動きにくいから嫌なだけです」
「……舞が舞える程度には略装で構わないと言っていただけたのがどれほどの栄誉か、お前に言っても無駄なんだろうな」
 心底呆れ果てた様子で言い放たれても、望美は気にしない。それこそ言われるだけ無駄なのであり、別に望美にとって大きな価値があることでもない。ただ、かつての時空の平泉で心を凍らせてしまった青年がやってきて告げた宴席の誘いを断る理由がなかったと、それだけの話だったのだ。それが、気づけばこのような、装束だの作法だのという小うるさい話に発展してしまったのであって。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。