朔夜のうさぎは夢を見る

まといしよろい

 を介して齎された貴船の祭神の言葉に従い、朔は年越しを待たずに己を神子にと選んだ龍を、龍脈に還した。巡りはじめた神気が鮮やかなまでに浄化され、同時に龍脈へと還るべき魂達を連れて溶け込んでいったことを、白龍は深い慈愛に満ちた声で厳かに語る。
 事態を説明するのに最適だろうと選ばれたのは弁慶で、その簡潔で的確な説明を受けて、はいっそう落ち込んでしまっていた。
「世界を逍遥したというお話は、聞き及んでいます」
 一通り、決して短くない説明に途中で一言も口をはさむことなく聞き終えてから、はぽつりとそう声を落とした。
「その中で“白龍の神子”から譲り受けたという逆鱗は、さらにわたしが譲り受けました。その後、わたしの知らないところで高淤の神の御手にて砕かれ、龍脈に還ったとも伺っています」
「では、その折に知盛殿は神と対価についての契約を結ばれたのですね?」
「すべてが終わり、そしてなおわたしが望むなら、と。そう申されていたのですが」
 判断を委ねられ、そうして常に選択を抱えた状態でなお自分を選べと、そうも言い渡された。だからは知盛の傍らを選び、選択を阻みかねない要素を克服して、けれど自分の心の弱さに絶望して、示されるはずの岐路を選んだ。
 これで『帰る』のだと思った。そう告げようと思っていた。だというのに、神は邪神を滅したことの労はねぎらっても、その選択を問いかけてこなかった。問うのではなく、告げたのだ。

――目覚めたその時にお前が存在するのが、お前の心が真に望む世界。過たず選び、願い続けるといいよ、私のカンナギ。我らは常に、道を繋いでおくからね。

 声は優しく、真摯で、容赦なかった。かの神はそれ以上を言葉にしなかったが、は言い渡された宣告の意味を理解した。そして目に映る現実こそが、自覚の有無を超越したの真実。だから、その真実に向き合って、受け入れて、その上で生きていけと。


 目を覚まし、真っ先に視界に映ったのが見慣れぬ天井であったことには混乱したが、その夜闇の深さがに世界の別を教えていた。つまり、自分はこうしてなすべき役目を果たし、あまりに脆い制御に怯えながら、その上で彼のいる世界に留まることを許された。彼の傍に在ることを望む気持ちを、偽れなかったのだ。
「繰り言です。でも、どうか少しだけ。わたしの懺悔に、付き合っていただけませんか?」
「聞きましょう」
 言葉を切ったきりずっと沈黙を守るを黙って穏やかに待っていた弁慶は、絞り出された震える声での嘆願に、ただ、いらえる。
「わたしにとって、知盛殿は世界の定義です。その傍に帰れと、そう言っていただきました。眠りを預け、背を預け、存在を預けると言っていただきました。その懐に立ち入ることを許されました」
 心を、特にその弱い部分を曝すのは、恐ろしい。誰かにそれを明かすのは恐ろしい。なぜなら、それは己の存在そのものを委ねることだからだ。自分でも目を背けたくなる、弱くて惨めで醜い、でもそれこそが己という意思を形作る根幹の一部。
 誰もが心の奥にそれを抱え、ただ抱えているだけでいることはできないから、あらゆる形に変えて発散し、あるいは周囲に委ねている。それを、知盛はあろうことか、そのままの形で認め、そのままの形で明かすという手法を選んだだけで。
「わたしは、それが嬉しかった。あの人の在り方に惹かれ、あの人の危うさを支えることを許されたこの身が嬉しかった。傍に在れることは何にも勝る喜びでした。張り詰めて、気を休めることができなくて、危ういほどのその心を安らがせる場として受け入れられたことが嬉しくて、そのためになら、何だってできて――」
 堰を切ったように、俯かせた視線で床を睨みながら、振り絞られる思いの奔流に、弁慶はそっと目を細める。


「怖くて仕方なかったこの力も、そんな得体の知れないものをずっと隠していたわたしのことも受け入れてくれて。その上、力を制御するためにどうすればいいのかの道も示していただきました」
 累を及ぼしたくなかった。それ以上に、嫌われたくなかった。語ったところで忌避はされまいと、信じながらも信じ切れてはいなかった。そんな懸念さえ笑い飛ばし、猜疑など軽やかに薙ぎ払い、すべてを受け入れて、信じて、その上でなお変わらずに眠りを委ねられた。
 その勁さに、深さに、どうしようもなく惹かれた。疑うことなど、考えられなくなった。だからもまた安心してすべてを委ねて、不安と恐怖に駆られながらも信じてここまで来たのに。
「なのに、還れと。還すことこそが誠意だなどと、そんなこと……ッ!」
 言ってついに両手で顔を覆いながら、は嗚咽交じりの声を一心に紡ぎ続ける。
「信じてくれていると、そう思っていたのに。ずっと、ずっと傍で支えられるように、重荷にならないように……そう思って、頑張っていたのに」
 もはや思いが言葉にまとまらなくなったのだろう。必死に泣き声を殺し、はただ肩を小刻みに震わせ続ける。


 彼女が耳にしなかった、そして自分があえて告げなかった言葉を紡ぐべきだろうかと、弁慶は迷う。明かせば、もしかしたら彼女の心が少しは軽くなるかもしれない。だが、あれは自分が告げるべき言葉ではない。
 昨夜、あのしじまの中で意図せず零されたのだろう彼の真情は、彼自身が紡ぐからこそ意味がある。だから代わりに、弁慶はそこで自分が思ったことを、明かす。
「これは、僕の憶測でしかありませんけれど」
 贖罪だと、彼はそう言っていた。そう言った瞳で、将臣のことも巻き込みたくなかったのだと繋いだ。勇将と、猛将と。あるいは鬼神のごとき、人としての情をどこかに忘れてしまった冷酷無比なる殺戮者と。源氏の将兵に等しく恐れられていた獣は、きっと、ずっと悔いていたのだろう。弁慶にも似た思いがあるから、それはなんとなくわかる。
「知盛殿は、あなたに辛い思いをさせたのだろうと思って、それを悔やんでいるんですよ」
 他に術が見当たらなくて、本懐を遂げるためにはどうしても必要で。だから惑う心を殺して冷徹に策を巡らせ、必要と判じたすべてを、勝利のために徹底的に利用するのが軍師の仕事だ。巻き込んで申し訳ないと思いながら、それが宿命なのだと言い訳を続けて黒白の龍の神子を、異界からさまよい込んだ八葉を、軍場に追い立てた。寄る辺は違っても、目的は違っていても。それでも、抱いていた葛藤はきっと根源を同じくするものだろう。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。