まといしよろい
気配が完全に遠ざかるのを待ってから、誰からともなく溜め息がこぼれたのは致し方のないことだろう。ぐったりと肩を落とし、疲弊したと全身で訴えながら将臣が声を絞り出す。
「あー、悪ぃけど、胡蝶さんの方は頼むな。俺は知盛の方を何とかしてみるから」
「何とかなるわけ? アイツ、言い出したら聞かないんじゃないのかい?」
「俺だけなら言いくるめられて終わりだけど、この件に関してはバックアップが完璧だからな」
何とかなるだろうと笑って、それから将臣は横文字の意味が通じていないことに気づいて言葉を付け足す。
「バックアップってのは、後衛とか、周りの援助とかいう意味だ。西八条に戻れば、重衡も経正もいるし。最近の知盛のギリギリっぷりは、惟盛にだって心配されてるぐらいだし」
溜め息交じりの説明に、敦盛がおずおずと問い返す。
「惟盛殿は、お心を戻されたのですか?」
「和議の件がまとまってからは、生きてた頃に近い感じだぜ。お蔭で、知盛にあんまり負担かけんなって叱られる相手が増えた」
がりがりと頭をかき、将臣は困ったような苦笑を浮かべる。
「黒龍の逆鱗もな、知盛が一人で清盛を説得してくれたんだけど。まあ、案の定ぶち切れた清盛の八つ当たりに耐え切れなくて、ぶっ倒れてな」
「清盛の八つ当たりって、それ、相当なんじゃないの?」
「おう、凄まじかったぞ。あらかじめ予測してたから陰気の嵐は結界で押さえ込めたけど、諸に喰らった知盛はバッタリ」
平家が擁す中でも最強と思われる怨霊の八つ当たりともなれば、無理からぬ話であろう。いくらのついでに加護を分けてもらっていると嘯いていても、知盛は生身の、ただの人間である。人外の力を無遠慮に揮われては、ひとたまりもあるまい。
けろりと受け流す将臣に血の気の引いた顔を向け、望美は「よく無事だったね」と呟く。
「俺もよくはわかんねぇんだけど、知盛は、気の器? それが、一般人よりでっかいんだってさ。だから倒れるだけですんだって話だ。けど、さすがに疲れが溜まってたらしいところにそれは堪えたみたいで、しばらく意識不明状態が続いてな」
大騒ぎだったけど、うまく隠せてたみたいだな。でも、ほかには洩らすなよ。あっさり平家にとって最重要の機密だろう事項を暴露しながら、将臣は続ける。
「それまで飄々としてたから、誰も気づいてなかった分、ショックがでかかったんだろうな。清盛は真っ青だし、尼御前は寝込むし、都落ちの時よりも酷い有り様だったぜ」
「……無理もない話でしょう。知盛殿は、あまり丈夫な性質ではあられませんから」
「だな。何年か前にも似たようなことがあったって聞いたし」
将臣は相槌に頷いただけだというのに、その言を聞いた敦盛は何かに気づいた様子で目を大きく見開いている。納得と、そして悲哀だろうか。みるみるうちに表情を覆った感情の波に、脈絡の読めない面々は顔を見合わせて首を傾げることしかできない。
「敦盛? どうかしたか?」
「あ、いや。その……」
問う将臣に曖昧に言葉を返し、暫し逡巡してから、けれど敦盛は重い口を開く。
「叔母上が臥せられたのなら、それはきっと、重盛殿がお亡くなりになられた翌年のことです。原因もわからず高熱が続かれ……重盛殿に続き知盛殿も喪われるのかと、一門中が浮き足立っていました」
そして、ますます視線を伏せ、膝の上で両手を握り締めながら、続いたのは哀絶に濡れた声。
「お見舞いにとうかがった兄上が、申されていました。いつ病魔と闘うことに厭いてしまうかとずっと心配だったけれど、胡蝶殿――殿がいらっしゃる限り、知盛殿はそう易々と彼岸に渡ることはあるまいと」
それは、裏を返せばその存在がない限り、知盛は経正の抱き続けていた心配をずっと身に宿し続けるということ。
己が生への執着も薄く、何もかもに倦み、いつ気紛れに黄泉へと足を向けるかわからない、命を持つものとしてはあまりにも致命的な、危うさ。ようやく見出し、認めたのだろうこの世へ存在を繋ぎとめる杭を、では自らの手で切り離し、天へと還そうとするその心は、一体どれほどの絶望であり、どれほどの覚悟なのか。
「お前ら、おんなじようなことばっかり言うのな」
自らの発言に、さらに思考が沈んでしまったのだろう。すっかり肩を落として俯いてしまった敦盛に、将臣は苦笑を湛えて穏やかに笑いかける。
「まあ、それで清盛も何か思うところがあったみたいでな。大人しく逆鱗を渡してくれたし、重衡達は、何が何でも胡蝶さんと知盛のよりを戻さないとって息巻いてるし」
「ああ、なんだ。やっぱりあの二人はそういう仲なわけ?」
「いや、違うらしいぜ。知盛の絶賛片思い中って聞いてる」
「あれで? どこからどう見ても、そうとしか思えないけど?」
「でも、俺が知る限りずっとああだぜ。周りはそう思ってるみたいだけど、一切手出しはしてないって話だ。いい感じなのに、最後の一歩で足踏みしてるんだよなぁ」
「ふぅん」
他人の恋愛事情をあけすけかつ無遠慮に評し、将臣は意味ありげな様子で考え込んでいるヒノエに興味深げな瞳を向ける。
「なんだ? 何かいい考えでもあるのか?」
「まあ、なくはないよ。もちろん、それにはアンタ達がうまく立ち回ってくれるっていう条件がつくけど」
にっと、沈んでいた空気を払拭するかのごとき鮮やかで自信に満ち満ちた笑みを浮かべ、ヒノエは自分を見つめる面々に顔を寄せるようにと指にて招く。そうして齎された策士の案に、年明けを間近く控えて、ようやく一同は明るく希望に満ちた笑顔を交わしあう。
Fin.