朔夜のうさぎは夢を見る

まといしよろい

 剣を握り続けたため皮膚が硬く盛り上がり、やわらかさなど微塵も感じられない手指が、それでも精一杯の優しさを篭めて髪を梳き、頭を撫でる。全然違う、けれど、とてもよく似ている。それは守るものを知り、そのためにひたすら己を鍛え上げた者が持つ、優しさと誇りと強さを刻んだ手だ。
「俺よりもずっと思慮深い方だし、ただでさえ若輩者である俺に、こんなことを言えた義理はないんだがな」
 一定の間隔で行き交うぬくもりと重みが心地良く、視界を閉ざして、言われたとおりとりあえず心を落ち着け、それから戻って眠ってしまおうと考えていたの耳に、なぜか気弱になった声が落ちてくる。
「何ごとも、過ぎるのはよくない。思索も同じだ」
 どこか言い訳でもするかのような響きを孕んだ言葉をはさみ、しばらく唸ってから、けれど九郎は意を決したのだろう。頭を撫でていた手を止め、それにつられて顔を上げたと目を合わせて、ひどく真摯な表情と声で言葉を継ぐ。
「それで、知盛殿はどうも、考えすぎて勝手に結論に行き着いてしまっているように、思う」
 与えられた言葉が脳髄に染み渡り、その意味が胸に響いてようやく、は眼前の九郎が慌てた様子で周囲を落ち着きなく見回し、意味なく手を振り回していることを認識した。だが、どうしようもない。このどうしようもない優しさに触れてなお感情を抑えておくには、九郎の指摘したとおり、今のは心身ともに弱りきって、ぼろぼろになっているのだ。


 声もなく、ただじっと九郎を見つめながら涙を零し続ける姿に、先ほどの邪神に立ち向かった果敢にして冷徹な将としての側面は一切見られなかった。あるいは年齢不相応とも呼べるだろう、それは幼げな姿である。
 望美や朔が身近にいるとはいえ、自分よりも年下の彼女達に比べて、は九郎と同じか、むしろ年上だと判じていた。そんな相手がまさかこんなにもいとけない反応を示すとはまるで想定していなかった九郎は、どう対応すればいいかがわからずにひたすら途方に暮れる。
「あの、おい。俺は何か、そんなに酷いことを言ったのか?」
 物言いがきついことは周囲からも指摘されるし、自覚のある性癖である。また知らぬうちに厳しいことを言っていたのかと、さすがに見るからに傷だらけの女性を不用意に泣かせたとあっては気分が悪く、九郎は慌てて弁明を探す。
「その自覚のなさこそが、九郎の一番の酷さでしょうね」
「まったく、女あしらいがなってないかと思えば、泣かせるのは得意なわけだ?」
 ゆるりと頭を振り、そのまま俯いて涙を膝に落とし続けるを前にただ挙動不審な行動を取ることしかできない九郎に、呆れきった声で天地の朱雀が助け舟を出す。自他共に認める女あしらいに長けた二人の口出しに、あからさまにほっとした表情で九郎が振り返る。


 ゆったりと裾を払い、距離を縮めたのは弁慶だった。わずかに身体をずらして正面を譲った九郎に目礼を送り、うなだれる肩に手を置いてそっと微笑む。
「ですが、九郎の言い分には一理ありますよ。まだ顔色も悪いですし、せめて今晩はゆっくり休んでいただかないと」
 ね、と念押しの声が重ねられれば、掠れた声で「申し訳ありません」との言葉が返される。新しく落ちる涙はもうない。あっという間に自制心を取り戻したらしいに、弁慶は勁さと背中合わせの哀しみを思う。
「高淤の神が、事の顛末は皆様に伺うように、と。そう申されたので」
「……どこから、お聞きになっていました?」
「この戦に、ゆかりなき者を巻き込むつもりはなかった、との件からです」
 床を抜け出した理由が明かされてみれば、さらなる間の悪さに弁慶はいっそ眩暈を覚える。すべてを聞いていても彼が導き出した結論に彼女が傷つくという構図に違いはなかっただろうが、その度合いは大いに違っていただろうに。
「とにかく、今宵はもうお休みください。時間も時間ですし、詳しい話は、また明日にしましょう」
 言いながら視線をさっと流し、周囲の同意を取り付けて弁慶は穏やかな笑みを浮かべる。宥め、すかし、そして相手の言い分になど一切聞く耳を持たないと雄弁に語る表情をじっと見やってから、はそっと瞼を伏せて頷いた。
「わかりました。褥は、先ほどまでお借りしていたものを、そのまま使わせていただいても?」
「うん。部屋はいつもと違うけど、ちゃんさえ構わなければ」
 確認口調で持ち上げられた視線に景時が頷き、それを受けては小さく礼を送ってから朔へと視点を移す。


 悲しみに沈み、昏い光を湛えていた瞳が、ふと遠く高い気配を醸し出す。
「急かすようなことを申し上げる立場でないことは、重々承知の上です。ですが、高淤の神のいわく、還すのならば今宵のうちに」
 宣する声の厳粛さは、彼女もまた神なるものに格別な寵愛を受ける存在であることをまざまざと知らしめる。視線が落とされているのは、膝の上で軽く組まれた朔の両手のその中。何を、と。示されなかった対象を誰もが正確に読み取り、思わず身を強張らせる。
「その気より生じた怨霊達も、大祓えを経て、新しき年の清浄なる気として龍脈を潤すだろうと」
「なるほど、年越しに乗じてしまおうってことか」
「禍事を抱えて年を越すのは、佳からぬことにございましょう」
 本来ならば日本でも有数の霊地を統べる神職として祭事に奔走しているべきヒノエが即座に諒解すれば、は仄かに自嘲の漂う微笑を浮かべる。禍事はすなわち、怨霊の存在だろう。この一年で降り積もった穢れを祓い、まっさらな状態で新しい一年を迎えるこの夜ほど、彼らを在るべきところに還すのに相応しい夜はあるまい。
「無論、年を越えてより還したからとて、害はありません。黒き龍神は、もはやあるべきところへと帰されたのですから」
 複雑に過ぎるだろう朔の心情を慮ったのだろう。そう付け加えてやわらに微笑み、は実に流麗な一礼を残すと、衣擦れの音もささやかに退室していった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。