まといしよろい
つんと鼻の奥を衝く刺激を感じ、望美はなるべく平静の表情を保つことを意識しながら、ぎりりと奥歯を噛み締めた。わかりやすいとは決して言えない、けれどわかりにくいと言うにはあまりにもあからさまな知盛の感情表現は、その発露の歪みさえ理解してしまえば意外に看破しやすい。
平家で最たると呼ばれる将であり、公達としても標準の遥か上空を涼しい顔で逍遥し、舞っても詠ってもそつなく一流。望美は聞いたことがないのだが、楽の腕も相当なものという。
何もかもをあまりにもあっさりとこなしてしまうその才にはひたすらに目を瞠るしかないし、生まれ持った才に驕ることなく、何事にも研鑽を惜しまないからこそ花開いた才能なのだろうとも思う。だが、そうして何もかもを器用にこなす印象が強いから、誰もが錯覚する。
彼もまた一人の人間に過ぎないのであり、なればこそ得手があれば不得手を持ち、どうにもならない不器用な側面があるのだということを、忘れてしまう。いや、見ようとしないのだ。当人が見せようとせず、それこそ幸か不幸か、実に器用に隠してしまうから、なおのこと。
「だから、還れ」
続けられた声は優しくて、優しいからこそ哀しかった。知盛は視線さえ動かそうとしなかったが、声が向かったのはどう考えても部屋の外。深更にも手が届きそうな夜闇の中に、いつの間にかひっそりと紛れていた気配の主へ。
気づかなかったことが命取りになる場ではないのだが、これまでの経験によって鍛え上げられた感覚を自負している面々だからこそ、気づけなかった己に、それまでの状態を今さらながら思い知らされる。あまりに壮大であまりに悲壮な話に、周囲を無意識に探る感覚が鈍るほどに、呑まれていたらしい。
「お前は実によくやってくれた……。あとは、俺の領分だ」
聞き覚えのある言葉をゆるりと繰り返し、知盛は手馴れた仕草で袂を払ってから軽く頭を下げる。
「長々とこのような時間まで、礼を失したこと、謝しよう」
ふと改められた口上は、頭の下がった先にいる邸の主に向けられたものだろう。唐突な話題の転換に面喰いながら、「あ、いや、うん」と曖昧に相槌を打つ景時をちらと見やり、そして知盛は視線をぐるりと巡らせる。
「神子殿に次にお会いするのは、和議の席であろうな。それまで、何事もなく過ぎることを、祈りおこうか」
一旦行き過ぎた視線を引き戻し、最後に望美を見つめてそう笑ってから、知盛は実に流麗な動きで腰を持ち上げる。
「俺はこのまま戻るが、お前は泊めていただくといい。ゆめ、日が昇るより前には戻るなよ?」
お前がどこぞの姫君に通っているなどと、そのような噂が立てば、収拾がつかんぞ。からかい混じりの忠告は、しかし本音が半分は交えられているのだろう。意外にも瞳の色が真剣で、受けた将臣は反射的に頷いている。それを確認し、踵を返して簀子に踏み出しながら、知盛はそっと言葉を落とした。
「還り、悪しき夢でも見ていたのだと、そう断じて……忘れてしまえ」
下ろされた御簾には影など映るはずもない。だが、そう囁く知盛が決して簀子に立っていたのだろう娘を見返らなかったことを、部屋に残された誰もが過たず確信していた。
あまりに傍若無人な独り舞台に幕が下りて、けれど彼らが思考と声と行動を取り戻すまでには、最低でも呼吸を三つほどはさむ時間が必要だった。とんでもない勢いで展開した事態を完全に把握し、委細を理解する状態までは到達していない。だが、だからといってその考察をこそ優先させるには、最後の登場人物の状態が気がかりだった。
当人に悪気はないのだろうが、音もなく退出した知盛に比べれば過ぎるほどに乱雑な仕草で御簾を潜り、問答無用で寒風に曝される簀子からせめての風除けと暖を取るための火鉢のある室内へと影を連れ込んだのは、意外にも九郎だった。御簾に近い場所に座を定めていたという理由もあるのだろうが、それならば弁慶やヒノエの方が距離が近い。その彼らが動くよりも先に立ち上がり、むっつりと唇を引き結んだままを連れ込み、そして火鉢に程近い床へと座らせる。
「倒れたばかりだろう。もっと体を労われ」
「………九郎。もう少し、言い方というものがあるでしょう」
「元からこういう物言いなんだ」
強大な神通力を発揮した後遺症なのか、それとも精神的な打撃が大きかったのか。寒風に曝されて頬を赤らめながらもなお悪いと知れる顔色を、気遣うというよりも咎めた九郎に、弁慶がしみじみと溜め息をつく。だが、九郎はむくれた表情のままばっさりと切り返し、改めての正面に膝をつく。
じっと、軽く俯くの瞳を覗きこむ双眸は、相変わらず真っ直ぐで曇りがなくて力強い。下手な言葉はかえっての心を傷つけるか穢す気がして言葉を選びあぐねている一同の中で、しかし九郎は怯まない。
「俺には、正直なところ知盛殿の考えはよくわからん」
いきなり正面から、何も飾らず切り出した九郎に眩暈と緊張を強いられる望美達とは対照的に、は力なく苦笑して「わたしも、いつだってよくわかりません」と呟いた。
「ついでに言えば、お前が何を考えているのかも、よくわからん。だが、今はなんとなくわかる。ろくでもないことを考えているだろう?」
ずけずけと放たれる言葉は、さすがに衝撃的だったのだろう。俯けていた顔を持ち上げ、目を大きく見開いては変わらない表情でおもむろに頷く九郎を凝視している。
「体が弱れば、心も弱くなる。そういう時には何をやってもうまくいかないし、何を考えても後ろ向きなことしか考えつかないものだ」
まるで幼子に怪我をすれば痛い、けれど手当てをすれば治ると諭すかのような調子で九郎は続ける。
「だから、まずはよく寝て、もっときちんと調子を戻せ。厄介事は、それから考えればいい」
戦はもう起こらない。だから、時間があるだろう、と。ふと瞳を和ませ、九郎はの頭を、それこそ幼子にするように撫でてやる。
Fin.