おわりのおわり
の全身から力が抜けた瞬間、漂っていた圧倒的な気配が音もなく霧散する。知らず知らずの内に詰めていた息を肺腑の底から長く吐き出し、掌をじっとりと濡らす汗に気づいた望美は、自覚のなかったあまりの緊張ぶりに小さく苦笑を零した。
「とりあえず、中に入って手当てしようぜ」
「そうですね。皆さん、無傷というわけではありませんし」
よいしょ、と言いながらを抱えなおした将臣が提案すれば、近くに寄って顔色やら脈やらを一通り診ていた弁慶も頷いて首を巡らせる。その視線が知盛の上で一瞬止まったのを見逃さず、すかさず敦盛が小走りに駆け寄って膝を折ったままの従兄に声をかける。
「あの、知盛殿。よろしければ、手を……」
「……いや、構わん」
相手の武の才と矜持の高さを知っていればこそ濁った語尾を正確に汲んだのだろうに、知盛の返答はそっけない。
「おい、知盛。無理すんなってば。ちっとは自分の状態がマズイってことを自覚しろ」
「兄上は、心配性であらせられる」
「わかってんなら余計な心配させるなよ、まったく」
淡々と混ぜ返す言葉はからかいと揶揄の笑いに彩られていたが、その声に精彩が欠けていることを見逃すほど、将臣は知盛と浅い関係を築いているわけではない。
「敦盛、ちっとでもぐらついたら、問答無用で抱えてきていいからな」
言い出したらば聞かないこともまた、浅からぬ付き合いの中で存分に思い知っている。だから、将臣はひとまず知盛の主張を受け入れ、その上で予防線を張ることを忘れない。
当人同士は至って砕けた調子で遣り取りを交わしているが、知盛という立場を仰ぎ見る感覚が強ければ強いほど、その気さくな遣り取りに巻き込まれた際の当惑は大きくなる。平家の中では比較的中枢にあたる血筋とはいえ、知盛は嫡流であり、さらに言えば敦盛よりも、年齢も官位も名声も、あらゆるものが上である。そんな相手をいざとなったら抱えてこいなど、言われても敦盛には即答できるはずがない。
しどろもどろになっている従弟の当惑など、すべて透かして見えているのだろう。疲れたように溜め息をひとつ吐き出し、知盛は気だるげな所作で立ち上がりながら、振り返って自分を見つめている将臣に苦言を返す。
「あまり敦盛を困らせていると、経正殿にご報告するぜ?」
「困らせてるのはお前だろうがッ!」
にったりと、口元に刻まれた笑みは常と同じく余裕に満ちている。引いた血の気がまだ戻らないため、元々色素の薄い肌は夜闇の中にあってなお蒼白いが、動きに澱みはない。これが名高い武将の矜持なのか、それとも本当に平気なのか、見定めることのできない敦盛は、とにかく支えが必要と判じたならばすぐに反応できるよう意識を凝らして、足を動かしはじめた知盛のすぐ後ろに付き従う。
「さっきよりはマシか?」
「……ソレを守護する御方は、大変に慈悲深くてな。よくよく、俺にも加護を分けてくださる」
隣に追いついた知盛の全身を観察して首を傾げた将臣に、低く笑う声はあっさりと告げる。
「神の加護にて齎される恩恵は、お前達こそが知るもの……だろう?」
「まぁな」
皮肉な物言いに苦笑を返すと、残りの面々を急かして先に邸内へと追いやっていた弁慶に呼ばれた将臣は、ようやく階へと足をかけた。
灯りの下で改めて検分してみれば、泥だらけの上に傷だらけという、誰もが相当に酷い有り様を呈していた。一方で先に奥の部屋に二重の結界と式神の見張りと共に安置された政子は無傷だったというのだから、まったくもって理不尽なことである。
もっとも、源氏棟梁である頼朝の正妻という立場を持つ彼女に下手に傷をつけては、せっかくここまでまとまった和議がどう転ぶかもわからない。怪我の功名とはこのことだろうと言いながら、昏睡しているは隣室に運び込み、男女で部屋を別れて傷の手当とせめてもの身繕いを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。
「どうやら、誰もさっきの騒ぎには気づいていなかったみたいだよ」
動き回って喉が渇いただろうと、気を遣って台盤所まで足を運ぶ譲について席を外していた景時が、清水の入った提子を手にはにかみながら戻ってくる。あれだけ派手な大立ち回りをみせたというのに郎党の一人も駆けつけない異常は、どうやらあらかじめ仕組まれたものであったらしい。
「もう消えちゃってるから、憶測でしかないんだけどね。多分、政子様に憑いていた荼吉尼天が結界でも張っていたんじゃないかな」
「それが妥当でしょうね。なんにせよ、事が露見しないに越したことはありません」
「さすがに、ここまで詰まった和議を前に頼朝の正妻による凶行だなんて、外聞が悪いなんてもんじゃないからな」
景時の解説に溜め息を吐いた弁慶の本音を、ヒノエがからかい混じりに引き取って意地悪く笑う。
どこか暗く沈んだ空気を動かす意図があったのか、単なる嫌味だったのかは知れないが、少なくともその言葉によって九郎と景時の顔色が失せたのは事実だった。それはそうだろう。この場には、非公式とはいえ平家の最重要人物が二人も揃っていたのだ。彼らの身に何か取り返しのつかないことが起これば、和議は反故にされ、院宣を無視するという汚名を被るのは源氏に他なるまい。
まして、彼らの訪問が龍神の神子による要請に協力するためのもの。それが世に知れ渡れば、受ける謗りは火を見るよりも明らかである。すなわち、“源氏の神子”の神託を用いて、卑劣な罠にて敵将を暗殺した恥知らず、と。
「まあ、政子さんをこっそり帰すとかはそっちでうまくやってくれよ? 今夜の俺たちは、“ここまでの労をねぎらうために、徹底的に人払いをして、重衡や経正達と個人的な酒宴を楽しんでいる”んだからな」
先ほどの戦闘では、属性の関係から神子と共に最も激しく動き回っていたというのに、さほどの疲れもみせずに将臣が苦笑を浮かべて沈黙を打ち破る。暗に“自分も知盛も何も見なかった”と告げているのだが、それで収めるには知盛の負った傷はあまりにも深く、苦しい言い訳である。
Fin.