おわりのおわり
「代わる。さすがにその傷だと運べないだろ? とにかく、お前も胡蝶さんも、ちゃんと手当てしねぇと」
言って、ほら、と促すように腕を差し伸べた将臣をじっと無表情で見やってから、知盛はふいと視線を逸らした。
「……必要ない」
「意地張るなって。どう見ても重傷人だぞ。それとも、尼御前に心配かけたいのか?」
「必要ないと、そう言った」
呆れたように溜め息をついた将臣が宥めるように言葉を継いでも、知盛は頑なな態度を崩さない。政子を室内で寝かせるために席を外していた九郎と景時が戻ってきたことにも気づかない様子で、じっと視線を腕の中のに注いでいる。
そして、どれほどの時間が流れたのか。やはり知盛の傍らに控えていた弁慶が、薬師としての忍耐の限界に耐えかねて実力行使に及ぶ前だったということは、それほどの時間でもなかったのだろう。だが、重苦しくわだかまる時間は、必要以上にその歩みを遅く感じさせる。
「神よ、聞いておられるのだろう?」
唐突に、落とされた呟きはあまりにも突飛なもので、将臣をはじめとした面々は、唯一その呼びかけに当てはまるだろう青年を怪訝な表情で振り返る。
もっとも、どれほどの視線に曝されようとも、身に覚えがなければ何もわかるはずがない。誰よりも深い驚愕に目を見開いていた白龍は、小さく首を振って「違う」と掠れた声で呟き、そのまま畏怖の眼差しを知盛へと送る。
「いつぞやの対価の変更を、願い出たいのだが……聞き届けていただけようか?」
だが、知盛は気に留めた様子もない。そのまま淡々と、自分の腕の中で眠る娘に向かって、意味のとれない言葉を並べ立てる。そして、あまりに不可解な言動についに将臣が口を開きかけたところで、一同は天から降ってきた圧倒的な存在感に身を強張らせる。
「――変更とは、また。おかしなことを言う」
響いたのは、同じにして異なる娘の声。事態の推移を把握しきれずに呆然とした視線が集まる中心で、瞼を持ち上げたはくつくつと笑いながら知盛の腕を抜け出す。
「どうした。アレでは足りなくなったのか? 追加が欲しいなら、とりあえず聞くだけは聞くよ?」
「……足りぬとは、思わぬが。少しばかり、事情が変わったがゆえに」
慇懃というのとまた少し違う、どこか硬い言い回しでゆったりと言葉を紡ぎながら、知盛は己の眼前に立つ娘を振り仰いだ。
「コレを天に還すこと、そのものを。……対価として、願いたい」
その対峙を、場違いだと心のどこかで考えながらも、望美は神と信徒のそれだと思う。高くて遠い、透明な瞳でじっと知盛を見据えると、そのの瞳からわずかに視線を逸らして、底知れぬ哀切を滲ませながら言葉を織り上げる知盛と。
神だの仏だの、目に見えず手で触れられぬ不確かなものに縋る姿がこれほど似合わない男も珍しい。だというのに、今の知盛は、その似合わない姿に誰よりもしっくりと当てはまって、望美の心に焼き付けられる。
「それを、お前は対価として望むのか?」
「望む」
即答は、迷いがないというよりも、迷いが生まれることを恐れているような風情だった。宙に放たれた音は確かに肯定を紡いでいるのに、音そのものは決して肯定を響かせていない。望美をはじめ、周囲で見守る誰もが気づいているその真情の揺らぎを、神と呼ばれた娘の中の存在が見逃しているはずがない。
そこに在るだけで何もかもを圧倒する荘厳な存在感は周囲からの一切の口出しを許さなかったが、だからといって同種の感情を載せた視線の集中による無言の訴えまで排除することはできない。
それでいいのか、そうではないだろう。お前は一体、何を憂えてそうも己の心を切り刻もうとしているのか。
雄弁に問いかける視線の雨に打たれながら、けれど知盛は凍らせた瞳の奥の感情を揺らがそうとしない。
つと腰を折り、ひざまずく知盛と視点の位置を合わせて至近距離からじっと双眸の奥を覗きこんでから、娘はゆるりと首を振りながら姿勢を戻した。
「なるほど、理解した。お前の偽りのなさは、まったくもって賞賛に値するね」
仄かに苦笑を刷く顔立ちは見慣れた娘のものなのに、醸し出される雰囲気が遠すぎる。ナニモノかは知らない、けれど確かに彼女の中には今、神なる存在が降りているのだと。理屈だの理解だのを超えた次元で齎される納得に呑まれながら、望美達は息を詰めて神の導いた結論を待つ。
「けれど、その対価はかつて約したよ」
「それを変じていただきたいと――」
「無論、それも可能だ。お前の働きは、この世界においてもやはり我らの思惑を凌駕したのだから」
くすりと微笑んで穏やかに知盛の嘆願を遮り、娘はけれど譲らない。
「でもね、そのお前こそが我らに知らしめたのだよ。知らぬ内に世界から切り離されることが、ヒトの子にとっていかな恐怖と絶望であるのかを」
だから、我らは同じ愚は犯さないと決めた。ゆえにお前のその願いは聞き入れられない。厳かにそう宣し、そして娘の内なる神は慰めるように、あまりに深い慈愛をその双眸に宿す。
「案じることはない。お前との契約は何ひとつ覆しはしない……。お前の希いは理解した。あとはコレに意を問うて、願うところを叶えよう」
言葉と共に伸べられた細い指先は、なぜか知盛の首許をそっと辿り、薄く微笑んでから離された。
「言の葉にて繕われた虚勢ではなく、その、最奥たる願望をこそ」
「……それの真意を、御身ならば見誤ることはないと?」
「コレに限らず、だよ。我らは肉体ではなく魂にて命を知るのだからね」
意味深げに嘯くと、娘はふと自分を見やる人間の中から一人の青年を見出す。
「さすがに、今のお前は己が身を支えることさえ辛かろう? アレならば構わないね?」
言って示されたのは先ほど知盛にの運搬を申し出た将臣であり、唐突な指名に目を見開きながらも、微苦笑を浮かべて軽口を叩き返す。
「人のことを、いきなり“アレ”呼ばわりかよ……」
「コレは我らの大切な愛し子。心するのだよ、ヒトの子」
「言われなくたって、胡蝶さんは俺にとっても大切な人だ」
混ぜ返した言葉をすべて聞き流されたことに特に気分を害する様子はなかったものの、刺された釘に将臣は眉間に皺を寄せる。そして突き返された言葉にくすりと微笑むと、娘は将臣の隣まで足を運び、瞼を落としてその腕の中へと崩れ落ちた。
Fin.