おわりのおわり
景時の張ってくれた結界に守られ、白龍に肩を支えられ、それでもなお全身を苛む本能としての恐怖と必死に戦いながら必死に心を強く保とうと念じていた望美は、背後で小さく上がった驚愕の声に、安堵と意外の念と、そして期待を胸に灯す。
「まだ動かないでください。術を使いはしましたが、相当な深手です」
「今ぐらいは言うこと聞いとけ。顔色、最悪だぞ」
緊張を孕んだ忠言は弁慶の声。心底心配そうな窘める声は、将臣のそれ。もっとも、誰に何を言われようとも聞く耳など持ちはしないだろう。彼はそういう男で、そのことを、望美は繰り返される数多の運命の中で、嫌というほど見知ってきた。彼を支配し彼を突き動かせるのは、他の誰でもなく、彼自身だけなのだ。
「……では、他に誰が、アレを止められる」
低く、ゆるりと吐き出される声はひどく気だるげで、いつ何時であっても変わりはしない。深く息をついた気配があり、ごく小さな足音だけを共に、彼は望美の脇を通り過ぎる。
「知盛、」
「神子殿方は、ここを動かれんよう」
何かを言いたかったわけではない。だが、何も言わずに見送ることはできなくて思わずかけた声を、知盛は一顧だにせず切り捨てる。
「動いてアレに灼かれたとて、俺は責任など持てぬゆえな」
左腕がだらりと投げ出されているのは、うまく力が入らないからだろう。荼吉尼天の爪が彼の左肩と右のわき腹を貫通した瞬間を、望美は誰よりも間近で見届けていた。止血が追いついていないのか、薬師の言うことを無視して動いたために治療が台無しになったのか、ゆったりと足が運ばれるその後ろには、ぽたぽたと血の道標が続いている。
吹き荒れる蒼焔を纏った嵐の中心で蹲り、己が身を必死に抱きしめているの許へ、知盛は何の躊躇いもなく踏み込んでいく。一歩近づくたびに衣の裾がより強く煽られ、その足が踏み出す距離が縮まる。そして、から二歩離れたところでついに先に進めなくなったらしい知盛は、体表を撫でる蒼焔にわずかに眉を顰めながら、膝を折って呟いた。
「醒めろ」
それは、本当にささやかな声だった。渦巻く嵐の中心で発されたのだから、風音に掻き消されてしまっても不思議はないのに、しかし声は望美の耳朶をもはきと打つ。
「鎮めてみせろ。もう、その力を翳すべき相手はおらん」
宥めるよりもずっとあまやかで、ずっとやわらかな声音。だが、それが状況からして信じられないことなのだと、望美は知っている。知盛は金気に特に恵まれている。なれば、あの渦巻く火気の只中にあって肌を灼かれるのは、他の誰よりも苦痛であるはず。だというのに、知盛は苦痛を微塵もみせることなく、存在を排除しようといっそう勢いを増す蒼焔の中心へと腕を伸べる。
「――よくやってくれた」
左肩の傷を押さえていた血まみれの右手が、伏せられているの頬をそっと撫でる。それをどこかで見た光景だと思い、思うと同時に熊野の本宮で垣間見た、の絶望を思い出す。
乾ききらなかった血がいたずらに血の気の引いているの頬を汚していく。それでも構わず首を縮こめているの顔を半ば強引に持ち上げ、反射的に見開かれた蒼黒の双眸を覗き込みながら、知盛は言葉を重ねていく。
「お前は、加減を誤ってばかり……だな」
ほのめかされた過去を、望美は知らない。数えることをやめた上書きの繰り返しの中で、という存在は今回はじめて見つけたのだ。だから、彼女の過去は噂に聞く以上のことは知らないし、知盛との係わりなどわかるはずもない。ただ、こうして彼が苦笑交じりの声をかける姿は、たとえ将臣を相手にしている時でさえ見たことがなかったとぼんやり考える。
いつかの夏の熊野で、望美は知盛もまた戦場の外に日常生活を重ねていることを思い知り、穏やかな時間を紡ぐことがあるのだと思い知らされた。どうして彼は、こういうどうにもならない局面でしか、その無表情の奥に隠した側面を垣間見せてくれないのだろう。いつしか納まっていた恐怖心が、言いようのない切なさに変わって四肢に浸透する。
「そのまま、眠ってしまえ」
あとは、俺の領分だ。そう囁きかける声が聞き覚えのない類の優しさに満ちた声であったから、錯覚したのだ、と。思い込みたいと感じた時点で自分はその裏に何か哀しい予感を覚えているのだと、どんな時でも事態と自身の心理を冷静に俯瞰する癖がついてしまったことをこれほど切ないと思ったのは、望美にとって初めての経験だった。
に知盛の声が届いていたのか否かを判じる術はなかったが、知盛の声が終わるのと同時にが意識を手放したのは事実だった。瞼を落としながら倒れ込んだ体を、知盛が片腕で器用に抱きとめる。それと前後するように蒼焔の嵐が納まったことを確認し、景時がようやく結界を解く。
「胡蝶さん、知盛!」
その瞬間を誰よりも待ちわびていたのだろう。真っ先に飛び出したのは将臣で、その後に続いた九郎は、知盛との傍らで地に伏している義姉を抱き起こす。
「政子様は……」
「命に別状はなかろうよ……。かろうじて、理性を保っていたようだからな。滅されたのは、かの邪神のみであろう」
億劫そうに視線を流して呟くと、知盛はなんとも言いがたい表情で自分ととを見つめている将臣を振り仰いでふと嗤いかける。
「しかし、万一のことは考えておかれよ、還内府殿? ……御台殿を害したとあらば、もはや和議どころではなかろうからな」
「………そん時はそん時だ。鎌倉から援軍が来るより先に、逃げ切ってやるよ」
人間相手なら何とかなるだろ。不敵に笑ってそう嘯き、そして将臣は真顔に戻って知盛の傍らに膝をつく。
Fin.