朔夜のうさぎは夢を見る

おわりのおわり

 力の拮抗は、ほんのわずかな時間だけ保たれたものだった。邪神の爪を絡めてその身を押しやっていたが、おもむろに小刀を払ったのだ。特に力を篭めたようにも見えなかったその動きに翻弄され、荼吉尼天は望美達の眼前の地面に背中から叩きつけられる。そして、苦悶と怒りの咆哮など気にも留めず、軽やかな身のこなしで飛び出してきたが、刀身を彩る燐光を燃え盛る蒼焔へと変えて仰向けの状態から身を起こしつつあった荼吉尼天の胸元へと穿ったのだ。
「ギャアァアッ!!」
 悲鳴と称すにはあまりにもおぞましくあまりにも頼りない、それは正しく断末魔。最後の抵抗のつもりなのか、まだ戦意を喪失していなかったのか、がむしゃらに振るわれた凶器の爪を、は表情ひとつ変えることなく同じ蒼焔を纏わり憑かせた腕で焼き払う。
 八葉が揃ってなおあれほどに苦戦した邪神が、たった一人の娘の手によって、あまりにもあっけなく葬り去られていく。
「……お前を赦すつもりなんかないわ」
 滅びなさい、と。ごく静かに、厳かに神の死を宣告し、は引き抜いた小刀を両手で握りなおして高く天に掲げる。
 振り下ろされた小刀が何を貫いたのかは、望美の目からは判然としなかった。ただ、玻璃が割れるような透明で高い音が閃光と共に広がり、それが納まった後に気を失って倒れているらしい政子が残されていたことだけが、荼吉尼天の消滅を伝えていた。


 理解を追いつかせることのできない事態の展開にしばらく呆然としていた望美が我に返ったのは、腕を振り下ろしたまま、俯いていたが小刀を地に取り落とした音を聞いたからだった。からん、と、軽く乾いた音にはたと瞬きを繰り返し、同じく我に返ったらしい朔が庭に駆け下りてくるのを受けて足を踏み出す。
さん!」
 先ほどまでの恐怖が何だったのかと思えるほど、今のはいつもどおりの様子だった。いや、常に比べて覇気がなく、丸められた背中は頼りない。きっと助けが要るだろうとの直感にしたがって駆け寄る距離は、歩数にして五、六歩といったところか。一足先にの許に辿りつき、うなだれる顔を覗き込もうと正面に回った朔の隣に追いついた望美は、しかしその相手から意味の取れない言葉を聞く。
「……は、なれ……て」
「え?」
 虚ろに見開かれた瞳は、焦点を結んでいない。だらりと投げ出された指先も、薄く開かれた唇も、すべてが彼女の正気の存在を疑わせる。だが、紡がれた言葉は確かに彼女の声によるものなのだ。
「離れて――ッ!!」
 そして、恐怖に駆られた悲鳴に載せて、その身を中心に突風が吹き荒れる。
 幾重もの運命の上書きによって培った戦場を渡り歩く技術が、反射的に受身を取って打撃を最小限に抑えようと全身の神経に働きかける。異常を察して構えていたのだろう。空中で姿勢を整えた望美は、将臣と九郎の手によって着地を助けられ、地に足をつけると同時に、リズヴァーンによって抱きとめられた朔の安全を視認する。だが、自由がきいたのはその時までだった。


「神子、恐れないで。心を平らかに保って、陰の気を祓うんだ」
 気づけばしゃがみこみ、小刻みに震える身体を己の両腕で抱きしめていた望美は、そう囁いて肩を抱く白龍の静かであたたかな陽の気の流れに、詰めていた息を細く吐き出す。
「朔も同じ。黒いのも、同じことを告げている。でも、神子の持つ陽の気が翳ることが一番よくないんだ」
「どういうことだい?」
 難しい表情をして必死に人の言葉で神の理を説く白龍に、望美に代わって声をかけたのはヒノエだった。なんとか視線を巡らせれば、声音同様に険しい表情を浮かべるヒノエの向こうで、景時が印を結んでなにやら口を動かしているのが見える。
「神子の陽の気は、ここで一番強い。神子が気を翳らせてしまったら、は完全に闇に呑まれてしまう」
「そうしたら、俺の結界じゃあ防ぎきれないってことだね」
「そもそも、防ぐのは難しいだろ。オレの目には、は神気を纏っているように見える」
 必死なことは伝わってくるが、白龍の説明は要領を得ない。声や表情から、必死さと同じぐらいの勢いで焦っていることもわかるのだが、それだけでは状況を判断できない。


 わけのわからない不安に心が揺らぎそうになる望美だが、しかし感情の流れを察したように肩を抱く白龍の手に力が篭もるものだから、それにますます眉根が寄ってしまう。
「白龍、私はどうすればいいの?」
 深く呼吸をして暴れまわる鼓動を宥め、望美は冷静さを保つことを意識する。戦場では我を忘れることこそが命取り。どんな窮地に陥っても、その場でできる最善を選び取ることができれば、最悪の事態は回避できる。そして、この場で最善の道を示せるのが己の龍に他ならないことを、望美は直観している。
「恐れに呑まれないで。そして、を呼んで。難しいかもしれないけれど、神子の声なら届くかもしれない」
さんを呼ぶの?」
「そう。の魂は、今、深い悲しみと恐れに呑まれて、怒りと憎悪に翻弄されている。このままでは、は世界に禍をなすモノに変じてしまう」
 告げる声は本当に悲しげだったが、告げられた内容の空恐ろしさにこそ望美は目を見開いた。
がどうしてあの焔を持っているのかはわからないけれど、アレは神でも抗えないよ。止めないと、世界を滅ぼす力にさえなりうる」
 あまりに次元の遠い話を持ち出されて気が遠くなりかけるが、ことの重大性はおぼろげながらも察することができた。そして同時に、彼女がこうも我を忘れてしまった原因をも、また。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。