おわりのおわり
強大に過ぎる気配に圧されて動けずにいた体は、しかしいざ純然たる敵意を前にすれば反射的に回避行動を選択する。全身に纏わりつく邪気のせいで動きがかなり鈍ってはいたが、何とか自力で爪から逃れたは、傾ぐ視界の中にリズヴァーンによって庇われた朔を認めてほっと息をつく。
「二人は下がっていてくれ」
「うむ。黒龍の逆鱗を、奪われぬように」
床に伏した身体を起こしてくれた敦盛によって朔の隣へと導かれ、は入れ替わるようにして前線に向かうリズヴァーンの言葉に神妙に頷く。
「任せたよ」
「俺達も、できる限り援護はしますので」
間合いの長い飛び道具を扱う景時と譲が最後衛から縦横無尽に攻撃を仕掛け、相克にあたる天地の青龍は最前衛。残る面々は、その隙を埋めるようにして四方八方からそれぞれの武器を邪神へと叩きつける。だが、さすがに神たる身は人の力からは遠いのか、決定打は生まれない。
おいしそうだと、そう呟いていた言葉こそが荼吉尼天の目的なのだろう。まさか政子の身にこれほどとんでもないモノが憑いているとは知らなかったが、ならば納得のいくことがある。先日の面会時に感じた恐怖の原因を思い知りながら、は隙あらばと伸ばされる爪を、床に落ちていた小刀で弾く。
できればもう少し刃渡りの長い小太刀が欲しいところだが、防衛に徹するのならば何とか事足りるだろうと己に言い聞かせる。今のの役目は、黒龍の逆鱗と黒龍の神子をかの邪神から守ることにあるのだ。
が背後に庇う朔は、そこに座り込んで何もしていないわけではない。黒龍の神子が司るのは、鎮めの力。その力を解放して、猛威を振るう荼吉尼天の動きを制限しているのだ。本来ならば神を相手に揮うものではない力を流用しているのだから、その負荷の大きさは推して知るべし。
身を守ることはおろか、身じろぎさえろくにできないだろう彼女は、目の前に立つを信じてその力を解放しているのだ。せめて預けられた信頼には余すことなく応えたいと、恐怖を戦意に換えてはひたすら相手の動きにだけ意識を向ける。
群がる羽虫を振り払うように、鬱陶しそうに長い腕とうねる髪とを振るっていた荼吉尼天が、ふいに甲高い声で吼える。その咆哮は衝撃波となって大気を震わせ、大地を揺るがせ、息のあった攻撃を続ける神子達を強制的に弾き飛ばす。
無論、それぞれに戦場で勇名を轟かせる腕利き揃いたればこそ生じた隙は一瞬だったが、神にとってはその一瞬の隙こそが最大の好機。朔の祈りによる束縛から放たれ、阻むばかりか攻撃をも齎す八葉達の壁がなくなったことを喜ぶようにもうひとつ咆哮が上がり、両手の爪は迷いなく無防備になった望美へと奔る。
「危ない……ッ!!」
注意を喚起する言葉を叫んだのは、ちょうど刀を振り下ろしたばかりだったため、誰よりも強い力で弾き飛ばされ、誰よりも神子から遠くで身を起こしたリズヴァーンだった。その声で己を狙う爪に気づいた望美が、俊敏な動きで身を捩って神剣を持ち上げる。姿勢を整えきることなく、八葉が必死になって神子へと走り、腕を伸ばす。だが、そのどれも間に合わない。
「望美ッ!!」
同じく吹き飛ばされ、部屋の奥の柱に背を打ちつけた衝撃で眩む視界をなんとか持ち上げたはそして、隣から響く朔の悲鳴をも塗り潰す絶望を見る。
確かに、位置としては彼が一番望美に近かった。場に居合わせる誰よりも強い陽気を持ち、それを神剣に乗せて攻撃する力となせる望美こそが荼吉尼天に対峙する上での最大戦力であることも事実だった。そして、その荼吉尼天が望美の魂を喰らって力をつけたいと言っていたのだ。
だから、何よりもまず彼女の身を守ることこそが優先されるべき。それは、誰もが共通して理解していた絶対の真理。だが、ならば誰がどう傷つこうと何も思わないという等式は、の中では成立しない。
月のない宵闇にあってなお暗闇に呑まれない銀糸が、ゆらりと揺れて地に落ちていった。見慣れた朽葉の狩衣に、赤黒い染みが広がっていく。
「――ぁ、」
細く、喉を息が通る際にうっかり立ってしまった音が唇から転がり落ちる。
咄嗟に身を起こしなおした望美が、狩衣の主を慌てて支えるのが見えた。追いついた八葉が伸ばされていた邪神の腕に攻撃を与え、弾き返して壁となる。薬師でもあり癒しの術を操る弁慶が、望美の傍らに膝をつく。
しかし貪欲なる神はそんな人間の諸々の動きになど何の感慨も抱かない。手近なところに転がっていた餌を手に入れられないのなら、少し遠いところに転がっている、阻むもののろくにない餌に手を伸ばすのは当然のこと。ふっと持ち上げられた光る双眸がゆるく弧を描き、再び爪が襲ってくる。
眼前に迫り来る血塗れた爪の存在に、怒りが弾け、思考が真っ白に塗り潰される。それが、の覚えている最後の衝動だった。
Fin.