おわりのおわり
あまりにも厳かで、あまりにも神聖な儀式が執り行われようとしている。自然と漲る緊張感に、背筋が正され、すべての感覚が鋭く研ぎ澄まされていくのを感じる。だからなのだろうか。清らかな陰陽に満たされた空間に、ふと入り込んできた邪な気配を感じ、は眉を顰めて視線を巡らせる。気づいた時には微かな、けれど凄まじい勢いで強大さを増していく、それは禍々しさの権化。
「あらあら、おいしそうな魂ばかりか、そんなものまで揃っているのね」
走る悪寒と全身を支配する底抜けの恐怖心に血の気が引く音を聞く向こうに、は鈴の音のような愛くるしい声を聞く。
「嬉しいわ。これで、大分手間が省けましたもの」
体中の関節という関節が、動くことを拒絶している。見たくない。聞きたくない。知りたくない。認めてしまえばそれがとどめになりそうで、嫌だいやだと叫ぶ感覚という感覚を無理矢理に抑えつけ、ようやく振り返った庭先には、ありえるはずのない人影が微笑んでいる。
まず声を上げたのは、九郎だった。片膝を立てて右手は剣の柄に。いつでも飛び出せる姿勢を整えたまま、きょとんと目を見開いて映る人影を誰何する。
「政子様?」
「ごきげんよう」
対する人影は、あまりにも自然に挨拶を返してきた。
「一体どうなさったというのです? なぜこのような時分に、このような場所に?」
「あら、九郎は質問ばかりですのね。それなら、私の方こそ聞きたいですわ」
くすくすと、浮かぶ微笑みはどこまでも愛くるしく、弧を描く唇は、山の端にかかる残光に濡れてぞっとするほど艶やかな紅色。そして、無邪気に残酷な言葉が織り上げられる。
「ねぇ、そこにいるのは、平家の新中納言に還内府ではありませんの? 私、九郎が敵方に通じていただなんて、信じたくありませんでしたわ」
「……ッ!?」
困ったように瞳を伏せ、頬に手を当てて政子は続ける。
「本当に、困ったものね。和議を結ぶなどという妄挙だけではなく、その裏で鎌倉殿のことを裏切っていただなんて。私、悲しすぎて涙さえ出てきませんわ」
白々しく嘯く声はあからさまな愉悦に濡れていたが、詰られる九郎は唖然と目を見開いて声さえ発せないらしい。一体何がどうなっているのか、あまりに突飛な事態に思考回路が空転する中で、は肝を冷やし続ける恐怖から、ひとつの仮説に辿り着く。
昼と夜とのはざかい。黄昏時は、逢魔時。それはすなわち大禍時。闇の眷属が力を増し、この世とあの世の境が揺らぐ。なればそれは、闇に属する神にとっても同じこと。
対峙する彼女が人でないことはもはや確信だった。根拠はない。だが、徒人であるというにはあまりにも根拠が薄い。こんなにも澄み切った邪気に満ちた存在が、人という括りに納まるはずがないのだ。
「私はね、力が必要なの」
ふと、喉を震わせていた笑声を収めて、政子はそう呟いた。
「あの方を至高の座へと導くためにせっかく力を溜めたのに、まさかこんな罠が待っているとは思いませんでしたわ。しかも、熊野に平泉、朝廷まで担ぎ出して」
紡がれる声は今度こそ本当に悲しみに沈んでいて、その奥底で隠しようのない怒りと憎しみに燃えていた。張り上げられたわけでもない、細く軽やかで鈴のような声が、逃れようのない呪縛と化しての全身を縛り上げる。
「院宣にて命ぜられては、いくらあの方でも従わざるを得ませんもの……。ええ、ですから、今回は諦めましょう」
けれども、その代わりに次の機会にあの方が今度こそ高みへと到達できるように、邪魔なあなた方を排除して、ついでに力を蓄えようと思いますの。
謡い上げて嫣然と微笑み、持ち上げられた白い指先から黒い霞が政子の全身を取り巻く。それは、禍々しさの嵐。轟々と音を立てて大気が澱み、吹き上げられる邪気がじわじわと滲み出す。
「みんな、気をつけて! 来るよ!!」
夕陽の最後の残光が消え、闇と魔の眷属こそが生き生きと動き出す時間がはじまる。その頂点に君臨するかのごとき圧倒的な邪気を相手に、しかし白龍の神子はその輝きを忘れない。いつの間に鞘を払ったのか、刀身が白く光る両刃の神剣をかざして庭へと飛び降り、先陣を切って駆けていく。
「おい、ひとりで突っ込むな!」
「神子殿は、勇ましいことで……」
そして、それを追うのは大太刀を握る将臣であり、双刀を構えた知盛。政子との立場的なしがらみがない分、即座に敵と断じられたのだろう。迷いなく振り切られる太刀には曇りのない戦意が漲っており、その気配に感化されたのか、逡巡の残っていた源氏勢の目に覚悟が宿る。
それぞれの攻撃に対する反応から、敵に有利と判断した将臣が望美の前に立ち、それを見て九郎が将臣の隣に立つ。
「望美、敵はあくまで政子様の中にいるという異国の神なんだな?」
「うん、そう。だから、荼吉尼天さえ祓えれば、政子さんは助けられるよ」
「……ならば、祓うまでだ!」
力強く断言した望美の言葉にぐっと唇を噛み、葛藤を振り払って九郎もまた切っ先を姿を変じた政子へと向ける。元の端麗な容姿を髣髴とさせる、けれどどこまでも禍々しい気配に満ちた女神が、にたりと笑ってその長い爪を邸の奥へと放つ。
Fin.