朔夜のうさぎは夢を見る

こおれるほむら

 退席前のお決まりの口上を述べる九郎の凛とした声さえも遠い。だが、ようやく挨拶を終え、深く下げた頭の向こうで政子が先に席を辞す気配を探るは、その後頭部にふと視線が落とされるのを知る。
「辛い目にあいましたね。でも、もう大丈夫よ」
 衣擦れの音は、あろうことが遠ざかるどころか近づいてくる。そして、の正面で立ち止まった気配の主は、すっと膝を折って背を流れる髪の間からのぞくの肩をなぞり、うなじにひやりと細い指を触れさせる。
「もうじき、その辛い思いもすべて終わりますからね」
 その声はいかにも慈愛に満ちており、控えていた女房やら郎党やらが、御台所が自ら敵将にかけたその情けに感嘆する気配が充満する。
 震え、強張った唇を何とか動かして掠れた声で「お気遣い、まことにありがたく存じます」と答えたのは、ありったけの矜持だった。その声の震えと怯えに気づいたのか、それともまた別の思惑か。くすりと笑う声を残し、政子は今度こそ部屋を後にした。


 表情を取り繕おうにもどうしてもぎこちなくなってしまうに何を思ったのか、当初の予定ではそのまま牛車に乗せてと望美を送り返すだけと言っていた九郎も共に、三人は梶原邸へと帰還した。緊張が過ぎただけだと言い張り、けれど不調は隠しようもないと観念したらしい。今日はもう休みたいと申し出たは与えられた部屋へと引き上げ、それを見送った望美と九郎は目を見合わせて首を傾げるだけである。
「どうしたんでしょうね?」
「確かに緊張する席ではあっただろうが、異常といえば異常だな」
「何か、気づかないところで際どい発言とかされたんじゃないの?」
 報告を兼ねて全員の集まった広間で譲の淹れてくれた茶を並んで啜りながら疑問を繰り返す望美と九郎の堂々巡りの会話は、しかし軽やかなからかいを交えた声に遮られる。
「お疲れ様、姫君。麗しい艶姿は、オレのために崩さずにいてくれたのかな?」
「そうだよ。せっかく来てくれるって聞いてたから、見てもらおうと思って」
 軽口をさらりと受け流し、笑う望美にヒノエは心外だと悲しげな表情を向ける。
「もののついでじゃなくて、オレに見せるためだけに、って言ってくれなきゃ」
 もっとも、そう訴える瞳は笑っている。芝居がかった動きで見つめあい、そして弾かれたように笑い出す。


「随分と男あしらいがうまくなったね」
「それこそ、ヒノエくんに鍛えられているからね」
 くすくすと笑いあっての言葉遊びは実に軽妙だが、このまま放っておいては話が進まない。おもむろに咳払いをして九郎が二人の意識を引き、それを見計らったように弁慶が口を開く。
「それで? 一体何の御用ですか?」
「おいおい、そんな物言いでいいのかい? さっさと返事をもらってこいって急かすから、わざわざ西八条まで出向いたオレに?」
 いつの間に席を外していたのか、もうひとつ椀を追加してもってきてくれた譲に小さく礼を述べ、舌を湿してからヒノエは大袈裟に肩を竦めてみせる。
「西八条って、平家の人がいるところだよね?」
「清盛の邸があったところだよ。さすがに、今の六波羅で寝泊りをしろとは言えないだろう?」
 望美の疑問には笑って答え、そしてヒノエはにぃっと口の端を吊り上げる。
「さすがに奥までは入れなかったけど、相当バタバタしているみたいだよ。将臣はともかく、知盛の手が空かないらしくて」
 政子との面会の日取りが決まると同時に将臣らに文を送っていたのだが、その返事がなくて焦れていたのだ。忙しいことはわかっているが、事前にこのぐらいの時期に時間を取ってほしい旨は連絡してあるし、なるべくあわせるとの言葉ももらっている。その上での放置を疑問に、あるいは不審にさえ思っていたのだが、望美の求めた対談の席に欠けることなく面子を揃えられる見込みが立たないため、ずるずると返事が延びていたというのが実情らしい。


 まあ、無理もないことだろうとヒノエはぽつりと呟く。
「今回の協議に出てきていた薩摩守は物分りのいい方だし、権勢欲も薄いからいいだろうけどね。院の出したあの人選をジジィ連中に呑ませるのは、面倒なことだと思うよ」
「そんなにとんでもない人が入ってたの?」
「あー、具体的なことは言えないよ。けどまあ、そういうことなんだよ」
 立場上、源平双方に院から突きつけられた要求の内容を知っているヒノエは、そう曖昧に笑って誤魔化す。そして、黙ってその先の本題を待つ面々を見回し、不敵な笑みへと表情を切り替えて口を開きなおす。
「でもまあ、熊野別当直々の訪問を無碍にできるほど耄碌しちゃいないらしくてね。オレ個人の誘いってことにして今夜の予定をもぎ取ってきたよ」
 急で悪いんだけど、許してくれるかい、と。返答など聞く気もない調子でヒノエは小さく笑ってみせる。
「確か、九郎と景時も今夜は空いてたろ?」
「ああ、問題ない」
「うん。俺も大丈夫だよ。でも、そうなると場所はヒノエくんのとこの京邸かい?」
「あー、それでもよかったんだけど、あんまりぞろぞろ移動しても目立つから、こっちを借りた方がいいかと思って、そう言ってきちゃったんだよね。事後承諾で申し訳ないんだけど、頼めない?」
 と、その段になってふと罰の悪そうな表情になったヒノエに、問われた景時は鷹揚に笑う。
「ああ、それは大丈夫だよ。ただ、将臣くんはともかく、知盛殿は裏から入ってもらいたいっていうか……」
「わかってる。ヤツらには別々で来るよう言ってあるし、案内に烏をつけている。尾行とか人目につく心配とかはいらないよ。ただ、人払いの徹底を頼みたいんだけど」
「それは大丈夫。ついでに術で目くらましと声封じもかけておくよ」
 にっこり笑って請け負った陰陽師は、万全を期すためだろう、白龍に手伝ってくれるよう願い出て、早速とばかりに腰を上げて準備へと取り掛かる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。