朔夜のうさぎは夢を見る

こおれるほむら

 興味があるとは言っても、それはどうせ時間が空いた際の暇つぶしとして、という程度だろうというのがの見解であった。北条政子は仮にも頼朝の正室。京の貴族の姫とは違うかもしれないが、やんごとない育ちの女君である。なればこそ、太刀を握って戦場を駆ける小娘を、珍獣でも見るつもりでいるのだろうと考えていたのだが、どうやら違ったらしい。
 さすがに源平両家の最高位の入京ともなれば、騒ぎの度合いは桁違いである。町は、和議が成るとの噂にはじまり、師走の慌しさに加えてさらに浮き足立っている。その喧騒をよそに、けれど相変わらず自由に外出することは憚られて梶原邸に篭もって過ごしているが政子との面会の指定を受けたのは、なんと政子の入京から三日目のことだった。


 必要な品は揃っていたが、いかんせん指定があまりにも唐突に過ぎた。作法に自信がないと泣く望美に最低限の立ち居振る舞いを教え込み、慣れた手つきで装束を身につける。さすがに正装は片手の指でも余るほどしかしたことがないが、基本は日頃の女房装束と同じである。
 だいぶ隔たっていたように感じていたが、身体に染み付いた習慣はそう易々と抜けるものではないらしい。危なげなく仕度を終え、牛車を寄越してくれた九郎の厚意に甘えて六条堀川に構えられた邸へと出向く。
「政子様。白龍の神子と月天将です」
「ご苦労様でした、九郎」
 御簾内に向かって頭を垂れた九郎は、続く入室の許可を受けてちらと視線を背後の二人に流し、先を切って仄暗い室内へと立ち入る。
「音に聞く龍神の神子と月天将はどのような方かと思って、楽しみにしていましたの」
 くすくすと、笑い混じりの声はまさしく鈴を転がすがごとく。軽やかに、華やかに。顔を上げるよう促されて視線を持ち上げ、見えたのは声音から想像したのと大差のない華やかな顔立ち。愛くるしく無邪気でいながら、女としての色を漂わせた妖艶な笑み。


 つと細められた双眸が自分の上で焦点を結んだのを感じ、はそっと視線を伏せる。直視するのは憚られるという礼儀がひとつ。そして、邸に到着した時からざわざわと背筋を粟立てて仕方のなかった恐怖心が、最高潮に達したからというのがもうひとつ。
「まあ、照れていらっしゃるのかしら? 九郎、紹介してくださいな。どちらの方が神子なのかしら?」
「あ、気が回らずに申し訳ありません。こちらが龍神の神子で、」
「春日望美といいます」
 みっともない姿を曝すわけにはいかない。袖の内に隠した指先が小刻みに震えるのを感じながら、はせめて無表情を保つことを意識する。そんなの極度の緊張など露知らぬ風で、まずは九郎が望美を紹介し、それに応じて望美がぺこりと頭を下げた気配が隣から伝わってくる。
「では、そちらが月天将なのね?」
「はい」
「……お初に御目文字仕ります、北条政子殿。平権中納言知盛殿が麾下、と申します」
 なるべくゆったりとした挙措となるよう心がけながら、は堂々と平家の人間としての名乗りを上げる。


 虜囚の身であるからと面会を断ろうとしたが、まさか政子を相手に自分は今もってなお平家の人間であると名乗るとは思わなかったのか、あからさまに慌てた気配が九郎から漂う。だが、構うつもりはない。いや、構う余裕がないのだ。
「まあまあ、素敵。とっても忠実な将だとの報告は受けていましたけれど、本当のようですわね」
 不興を買って叩き出されるならそれでいいと、かなり物騒なことをちらと考えながらの自己紹介は、しかし九郎と望美を焦らせはしても政子を愉しませる要因にしかならなかったらしい。軽やかな笑い声に肩をぐいぐいと押さえつけられるようで、額を伝う冷や汗には眉根を寄せる。
「さあ、顔を上げてくださいな。此度の和議、平家が動いたきっかけは、あなたの捕縛とも聞いておりますわ。一番の強硬派と目されていた新中納言殿を絆したのはいかな姫君か、わたくし大変楽しみにしていましたのよ」
 促されて渋々上体を起こし、しかし視線だけは合わせないようは己の膝を睨む。
「神子といい、月天将といい。本当にかわいらしいお嬢さんですこと」
 あなた方が軍場で太刀を持って走り回っていただなんて、信じられないわ。そうやわらに呟き、政子は他愛のない世間話へと話題を移す。


 和議への尽力を労うことからはじまり、軍に混じっての生活で不便はないかなど、今さらと思われる気遣いがつらつらと紡がれる。無難に会話をやりすごす九郎と望美に話を振られれば最低限の言葉を返しはするが、はひたすらに唇を引き結んで恐怖に耐え続ける。
 視線を向けられずとも、意識の一部が常にに向けられているのは明らかだった。コレはなんだ。一体、この圧力は何なのだ。叶うならば飛び退ってでも政子の気配に満たされたこの空間から離脱したいが、それは不可能。思考がひたすらの恐怖に塗り潰される寸前のところで、は疑問を繰り返すことで踏みとどまる。
 人ではない。だが、怨霊のそれとも違う。では神かといわれればそれも違うように感じる。とにかく、あまりに濃密で強大に過ぎるのだ。
「……なんだか、あまり五気色がよろしくないご様子ですわね。わたくし、無理を申し上げてしまったかしら?」
「あ、いえ。その、月天将はずっと、政子様にお目通りするのは恐れ多いと言っていましたので」
「あら、では、きっと緊張が過ぎてしまいましたのね。……そうね、名残惜しいけれど、このあたりにしておきましょうか」
 ふと、さもたった今気づいたといわんばかりの声音で問う声に、は答えられなかった。視線を向けられ、声を向けられ、そしてえもいわれぬ圧力を向けられる。床に伏さないだけで手一杯の意識の隅で、九郎が代わりに答える口上と、それを受けて細く笑う声を聞く。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。