たゆとういのり
経過報告のために顔を出しただけだというヒノエを見送ってからは、それこそあっという間だった。九郎と景時が慌しく入京し、それと前後するように平家の面々もまた京に入ったとの噂が町を駆け巡った。あとはもう、はもちろん、望美や白龍にさえ口出しのできる話ではない。連日にわたって協議が行われているらしく、景時はろくに邸に戻らないし、九郎にいたっては帰京の報告時にちらとその顔を見ただけである。
源氏の軍師という立場にあっても、それはあくまで軍務においてのみの肩書きであり、政治的な側面においては一切の口出しを許されない弁慶は梶原邸にちょくちょく顔を見せてくれていたが、気になって仕方のない協議の内容は漏れ聞こえてこない。
町中に出る怨霊をあらかた封印し終わった望美は、時に自然発生してしまう怨霊の噂を聞いて出かけることが主となり、それなりに暇を持て余しているようである。せっかくだから自分も学んでみたいと、最近では膝をつき合わせて縫い物に精を出すと朔に混じり、必死になって布を睨む場面も増えている。
それぞれに衣に針を差しながら他愛のないおしゃべりに興じる時間は、に懐かしい情景を思い起こさせる。よく考えれば隔たってからまだ一年も経っていないのだが、その間に起こったことがあまりにも濃密に過ぎたためか、振り返れば長い年月が横たわっているように思えるのだ。
真剣な目つきで手元を睨み、周囲をちらちらと見ては悩みながら針を差す望美の姿には、自分の目からは見えなかった、かつての己が重なる気がする。その初々しい仕草に微笑を誘われながら、視線を感じればつい作業の手を緩めてしまうのは仕方のないことだろう。そして同時に思う。自分も、こうして甘やかしてもらっていたのだろうと。
「さん、楽しそう。どうしたの?」
「え?」
それこそ楽しげな声で問いかけてきた望美を振り仰げば、その隣で朔も同じようににこにこと笑ってを見つめている。どうやら、思うだけでは飽き足りず、笑い声が唇からすり抜けていたらしい。
「いえ。ただ、懐かしいと、そう思いまして」
別に取り繕う必要もないだろう。素直に思うところを述べれば、作業に飽きていたのか、さっさと手を止めて望美が身を乗り出してくる。
「懐かしいって、こういう仕事が? すごく慣れてるなぁって思ってたんだけど、平家にいた時はよくしてたの?」
「軍場に出る時以外は、女房として働いていました。繕い物は、大切なお役目ですから」
「それにしても、仕立てる手際が素晴らしいと思うわ。そんなにたくさん仕立てる機会があったの?」
「本来ならば一から仕立てることはさほど多くもないのでしょうが、折が折でしたので」
感心に目を丸くする望美を追いかけるようにして問いかけてきた朔にそっと笑い、は懐かしい日々を記憶に辿る。
「体格が似ていらっしゃることもあって、知盛殿がお手持ちのご衣裳を将臣殿にどんどん差し上げて。その分を仕立てろと、散々鍛えていただきました」
文の攻勢の際もそうだったが、今から考えれば、知盛はどうにもならない状況に追い込んでのスパルタ教育が実にうまかった。無論、周囲の他の女房達の手も大いに借りたわけだが、初期の、自分でもかろうじて及第点に掠るか否かといった仕立ての衣にも文句のひとつさえつけなかったあたり、腕前が安定するまでは純粋に経験を積ませることを目的としていたのだろう。だからこそ、後に直衣の仕立てや衣冠束帯の修繕を任されるようになった際には、技術の上達をそれこそ肌で実感してとても嬉しかったのだ。
「あ、そうか。将臣くん、普段はやっぱりそういう格好をしているんだよね」
「着付けの次第がわからず、けれど女房殿に手伝っていただくのは気恥ずかしいからと、知盛殿をご指名なさって身支度を整えていらっしゃったことは有名な逸話です」
「新中納言殿を指名して、そんなことを?」
正しく目を丸くした朔の驚愕はもっともなことだろう。平家においても中枢の血脈に位置する公達を捉まえて女房の真似事をさせるなど、多少でもこの世界の常識に身を浸していれば考えつこうはずもない。だが、たとえこの世界の常識を身につけてもなお態度を変えずに我が道を貫いていられるからこそ、将臣は平家一門にとって揺るぎない希望であり続けるのだ。
「それがまかり通ってしまったものですから、下手に下位の者が口をはさむわけにもいかず。結局、作法の類に至るまで、基本的にわからないことは年の近い公達のどなたかが手ずからお教えになっておいででした」
「それは、凄いわね」
苦笑混じりに締めくくったに答え、朔がしみじみと溜め息をこぼす。将臣が奔放な振る舞いをすることは、熊野での短い道行きの中でも明白だったが、その範疇が予想の遥か上空をいっている。敵で、武家で、公卿で。そういう枠組みを越えてこうして内部にいた人間の話を聞いてみれば、存外親近感も湧くし、微笑ましさも覚える。
思いのほか、うまくやっていけるかもしれない。そんなことを考えながら誰からともなく笑声を立てていたところに、軽やかにかけられる声があった。
「楽しそうだね、姫君達。できればその花のさざめきに、オレも混ぜてもらえると嬉しいんだけど」
「ヒノエくん!」
御簾を持ち上げてひょいと顔をのぞかせ、それこそ花が綻ぶように明るい笑みを浮かべた青年に、望美が驚愕と歓喜を乗せた声を上げながら腰を上げる。
「どうしたの? 珍しいね。入って入って!」
「ああ、ありがとう。でも、オレは姫君達を呼びにきたんだよ」
「それじゃあ、もしかして」
先んじて部屋の隅に積んであった円座の許に足を向けていた望美は、ほのかな笑い混じりの声にぱっと振り返り、目を見開きながらヒノエを見つめる。無論、その心境はと朔にしても大差ない。このところまったく姿を見なかったヒノエが顔を出したということ。わざわざ呼び立てにきたということ。それらをあわせれば、考えられるのはひとつ。
「両家の協議に一区切りついてね。おいで。九郎達も揃っている。現状の説明をしてあげるよ」
待たせて悪かったね。そう微笑むヒノエの纏う気配は穏やかで、それだけでも協議の行く末は察して余りあるというもの。思わず顔を見合わせた黒白の神子とは、それぞれに手にしていた裁縫道具を簡単に片付け、控えていた家人に火桶の始末を申し付けると、慌てて裾を払って簀子へと踏み出した。
Fin.