たゆとういのり
にこにこと嬉しげな龍神は、神であればこそ人の理屈など理解しないだろう。リズヴァーンはあくまで見守る視線だし、譲は絶対の信頼を向けるのみ。敦盛は、そういう観点よりもあくまで怨霊に対する存在としての望美を重視している。
よって、残されるのは熊野という共通項を持つ天地の朱雀。切れ者別当の愉しげな瞳はあまりに剣呑な光を宿しており、喰えない軍師の瞳はあまりに鋭利な光を宿している。
当人は否定していたが、先のあの口調と態度では、疑ってくださいと言っているようなものだ。いったいどのような伝手があったのかは知らないが、望美は知盛と何らかの接触を持っている。根拠のない確信を抱きしめて、もまた静かに観察の視線を望美に向ける。
そうでなければ、説明のつかないことが多すぎる。
中納言と、その役職の意味を知らずとも、参内していたことから考えれば外面を取り繕うことができようと判じるのは自然なこと。それを当てはめないということは、当人の気質を知っていることの裏返し。初対面であるはずの熊野においていきなり名を呼び捨てにしたことも、妙に気安い様子であったことも、そのすべてを知盛が当然と受け止めていたことも。
思い返してみれば、なぜこれまで確信を持って疑わなかったのかと、そのことにこそ疑念を抱く。源氏勢を裏切っている様子もなければ、間諜である可能性などそれこそ微塵もない。だというのに、彼女はあまりにも、ただの敵である平家について、多くを『わかり』過ぎている。
胸の奥で燻る思いを表層には出さないよう細心の注意を払いながら、そしてはすべてを胸の底に沈める。このまま時流に任せておけば、和議は確実に成るだろう。ならばそれでいい。これ以上かの一門に災厄が降りかからないのであれば、望美が何をどうしてこれほど多くのことを知っていようが、それは別段、大きな問題ではないのだ。だから、ただ彼女が一門にとっての禍とならないかどうか、そのことにだけ意識を割いていようとは決める。
「ああ、そうだわ。殿にお願いしたいことがあるの」
「なんでしょう?」
望美を見つめると同時に自分にも向けられていた天地の朱雀のどこか探るような視線を無視して自身の決意をなぞりなおしていたは、ふと向けられた黒龍の神子にそっと微笑を返す。
「兄上にも新しく直衣をあつらえた方がいいと思ったのだけど、私は官位のある方々の常識など知らないの。だから、色々と教えていただきたくて」
交渉の場ならばともかく、その後の和議やそれにまつわる宴席などを考えれば、それなりに形式張った衣装を用立てておくに越したことはない。軍奉行という立場上、政治的な場で表に立つことは少なかろうと本人は笑っていたのだが、どうもそうはいかなくなったことは明白である。
時に聞いている周囲が気の毒になるくらい辛辣な言葉での評が目につく妹であるが、こういう細やかな気遣いが行き届く辺り、兄に対する思いの深さは折り紙つきであろう。麗しき兄妹愛であることだと微笑ましく感じながら、は頷く。
「さほど詳しいというわけではありませんが、お役に立てるのでしたら、何なりと」
「ありがとう。そう言ってもらえると、本当に助かるわ。急で悪いのだけれど、それなら、明日にでも邸に置いてある直衣を出してみるから、ご意見をいただけないかしら?」
「あ、面白そう! 私も見学していていい?」
「ええ。私は構わないわ。殿も、構わないかしら?」
「見ていて面白いかどうかは、わかりませんけれど」
目を耀かせて見つめてくる望美に苦笑を返し、そして思い出しては付け加える。
「余計なことかもしれませんが、九郎殿方がお戻りになられたら、望美殿も衣を一式あつらえていただけるようお願いした方がいいかもしれませんね」
「え? 私、朔に貸してもらっているので足りてるよ?」
日頃の望美は、と同じく朔の手持ちから小袖を借り受けて生活をしている。九郎の傍仕えとして行動するためにとが水干やら袴やらを与えられた際に「お前もどうだ?」という誘いを受けたらしいのだが、同じ理由で却下したことは熊野への道中で聞いている。だが、今回はそういうわけにはいかない。
「日々の装いはよろしくても、和議の席ともなれば、裳唐衣姿でなくば示しがつきますまい」
「だったら別に、九郎じゃなくてもオレが用立ててやるよ?」
どうにも形式というものを理解しきれていないらしい望美にどう説明したものかと思案していたは、割って入ってきた明るい声に、今度こそ憂いを隠さず振り返る。
「熊野で院の前に出た時も、衣を改めてもらっただろ? 和議の席でも同じことをしてもらう必要があるんだよ」
「え? そうなの?」
「まあ、和議の席には院や上達部の皆様をはじめ、多くの貴族が列席するでしょうからね。正装していただく必要があります」
「あの時は急だったからありあわせの五衣しか用意できなかったけど、今度は時間があるからね。布から選んで、ちゃんと仕立てさせるよ?」
くすくすと楽しげに笑う声は、その音こそがすべてをわかった上での言葉遊びだと雄弁に語るが、事の全容が把握しきれていない望美が相手では、それは悪ふざけにさえならない。白龍の神子であると同時に源氏の神子として名を馳せる望美の正装を熊野別当があつらえたとあっては、源氏の名に傷がつくし、何より九郎の立場が悪くなる。
こういう際、止めに入るのは場に居合わせる中で最も明白な源氏勢であり、ヒノエの扱いを最もよく心得ている血縁者であるべきだろう。そう考えたがちらと視線を流せば、それこそ心得た様子で弁慶が目を合わせてにっこりと笑ってくれる。
「望美さん、ヒノエの言うことに惑わされなくても大丈夫ですよ。その辺りは、鎌倉殿にお話を通してもらえるよう、後できちんと九郎に話しておきますからね」
「九郎に姫君を彩る衣が見立てられるのかい?」
「おや。これでも九郎は、さんに趣味が良いと褒めていただける目利きなんですよ」
「そうなのかい? それはまた、意外極まりないことを聞いたね」
くるりと振り向いてきた天地の朱雀の視線はあくまで誠実さと驚愕とを浮かべていたが、その奥で揺れる笑みを見逃すほど、とて観察眼が鈍いわけではない。第一、言葉遊びに付き合うことは決して嫌いではない。白々しいと、胸のどこかでそう呆れた溜め息をこぼしながら、もまたいっそ清々しいほどにわざとらしく笑い返す。
「お人柄のよく表れた、実に気持ちのよいご趣味をお持ちだと推察いたします。望美殿の真っ直ぐなご気性を引き立てる、相応しきあつらえを見立ててくださいましょう」
過ぎるほど女慣れしたあなた方よりもよほど、素直に望美という人間性を魅せる見立てができようよ、と。篭めた皮肉を余さず汲み取ったのだろう。一瞬きょとんと見開かれた二組の双眸が向けられ、それから隠し様のない苦笑がどちらからともなく零される。
「まあ、そういうわけで、話はしておきますよ。ヒノエはむしろ、譲君達の分の手配をお願いします」
「はいはい」
簡単な打ち合わせを兼ねた会話はそのまま続けられたが、その合間にふいと向けられた弁慶とヒノエのそれぞれの視線に「降参」の意思を読み取り、は小さく笑声をこぼしていた。
Fin.