朔夜のうさぎは夢を見る

たゆとういのり

 そのまま再び何事もない日常へと埋没していたが、院宣が下されたことを知ったのは、熊野から帰京して二月後のことだった。町で立つ噂はさほどもなく、当事者でありながら限りなく中立に近い立場にある龍神の神子の許では、その感慨はいまひとつ伝わりにくい。それでも、院宣を追いかけるようにして鎌倉から届けられた九郎からの文には、鎌倉勢としての交渉役を連れて京に戻る旨がしたためられており、いよいよ本格的にことが動きはじめたことは、嫌でも察せられる。
 ようやく梶原邸に顔を見せたヒノエによると、鎌倉側の交渉役は、九郎と景時、そして政務能力に長けていると噂の二名の御家人が当たるとのこと。一方の平家側からは、還内府と新中納言に加え、本三位中将、重衡と、薩摩守、忠度を伴うとのことである。
「まったく、嫌な人選だよ」
 一室に集った面々を前にこれまでのあらましと今後の予想される大まかな情勢の流れを説明してから、ヒノエは大袈裟なまでの溜め息をつく。
「どうして? 誰か、苦手な人でもいるの?」
「苦手っていうか、薩摩守は、オレにとっては叔父にあたる相手でもあってね」
「しかも、熊野に縁の方でもあるんですよ。縁のない方を相手取るよりは、まあ、やりにくいことは確かですね」
 きょとと首を傾げた望美の問いに対する答をさらりと引き取り、笑った弁慶が感慨深げに息を落とす。
「それにしても、平大納言殿を出してこられなかったあたり、知盛殿は随分とうまく根回しをなさったようですね」
「ああ、そこんとこは同感。あの大納言が出てきたら、オレは失望しただろうし」
 諒解しあった風情で笑う似たもの同士の甥と叔父だが、質問をしたはずの望美があっという間に置き去りにされている。困りきった表情でくるりと首を巡らせ、視線を向けられては仄かに苦笑を浮かべた。


「平大納言殿は、清盛公の義理の弟君であり、ご正室である二位ノ尼様の実の弟君にあらせられる御方です」
 とりあえず、とばかりに当たり障りのない説明をしてから、けれどちっとも疑問の解消されていない望美の表情に、はしばしの逡巡をはさみ、ともすれば平家への反旗ともとられかねない言葉を選ぶ。
「平家にあらずんば人にあらず――そのように申された方です。お噂になど、お心当たりは?」
「ああ、あの!」
 皮肉と自嘲を押し殺した声での問いには、黙していた譲から納得の声が上がった。望美はいまいちピンときていないようだったが、少なくとも言わんとしたことは伝わったらしい。眉を顰めて「嫌な言い方だね」と呟いている。
「まあ、加えて言えば大納言であることからも、知盛殿をはじめ、他の嫡流の皆さんでは官位の意味において、下手に逆らえない相手なんです。“還内府”が本物の重盛公ならば話は別だったのですが、将臣くんでは、少なくとも政治的な駆け引きの場には余り口を出せないでしょうし」
「その点、薩摩守は知盛よりも官位が下だからね。この面子だと、実質的な決定権は知盛にあるっていうことだ。源氏勢も、九郎よりは御家人連中の方が政には詳しいだろうし、そんな場にいかにも公卿としての鼻持ちのならなさを持った時忠に出てこられちゃ、せっかくの話が破綻しかねない」
 そのまま説明を継ぎ、一息ついてからヒノエはしみじみと呟く。
「そういう意味では、無難な人選とも言えるよ。知盛が相手なら、源氏方は油断しかねないし」
 どれほど老獪な重鎮を繰り出してくるのかと、恐らくは警戒が強ければ強いほど、源氏の面々は知盛のその若さをこそ侮るだろう。戦上手との異名が高い反面、彼の政治家としての側面は知られていないのが現状だ。


 源氏は若い。それは、一族全体に言えることだ。だが、平家は老いている。特に、重盛が喪われて以来、一族を動かす重鎮達がこぞって一世代前の人間であることこそが、良くも悪くも特徴であったのだ。
 これまでを担ってきた世代の知識と経験を蔑ろにすることはなく、しかしそれに縛られない。そのぎりぎりの選択が、今回の源氏方との協議のための人選だろう。一門を率いるにはまだ若すぎるといわれるだろう知盛と、その知盛では足りない部分を補い、けれど知盛の判断を縛らないための存在としての忠度。
 少なくともその顔ぶれに、京の貴族達は平家の今後を握るのがこれまでの権力者達ではなく、彼らの庇護下にあるだけだと陰で揶揄していた次世代の面々であることを知るだろう。彼らの実力のほどはともかく、そうして顔ぶれを一新することこそが肝要であろうとヒノエは薄く笑む。
 何を思ってのことか、その真意は知らない。だが、少なくともその思惑の一端が周囲に対して“禊”の印象を与えることにあるだろうことは察している。
「源氏は頼朝をはじめ、比較的若い世代が揃っている。あわせたのか、他の思惑があったのかは知らないけど……平家も、古いしがらみを脱ぎ去って、新しい世代でこの先を担おうってことだろうね」
 源氏と、平家と、朝廷と。そのすべての勢力の間で立ち回っていればこその、それは感慨。見知らぬ、新しい時代への胎動を肌で感じる。


 小さく納得の声をあげ、難しい顔をしていた望美は、ふと思い出したようにそのままの表情で敦盛ととを振り返った。
「でも、知盛はそういう交渉とかできるの? 私、想像が全然できないんだけど」
 その声は実に率直な懸念の色に染まっており、問いかけられた二人は思わず互いの顔を見合わせて苦笑を零す。
「知盛殿は武の方としての印象が先立つだろうが、院のお気に入りとして名を馳せていた切れ者の公達でもあらせられる。得手、不得手は存じ上げないが、そつなくこなされるに違いない」
「中納言の位まで昇られたのは、決して一門が権勢であったという理由だけではありません。きっと、よきように計らってくださいましょう」
「二人がそう言うなら、そうなんだろうけど……」
 頷きながらも納得がいったとは言い切れない様子で唸る望美に、今度は苦笑混じりに弁慶が声をかける。
「どうにも、望美さんは彼が気にかかるようですね。熊野で会った時に、何かお話でもされたんですか?」
「え? あ、いえ。そういうわけじゃないんですけど」
 穏やかな微笑の奥で鋭い眼光が光ったのを感じたのか、ぱたぱたと手を振って否定した望美は、そのまま話題を打ち切って景時から別枠で送られてきていた文を手にしている朔へと振り返った。九郎とは別の観点からの話やら、景時らしい気遣いに満ちた文の内容について明るく話し合う黒白の龍の神子に、しかし向けられる視線をは俯瞰している。


 彼女は何を知っているのか。なぜ知っているのか。それはリズヴァーンに対して抱く不審であり、知盛に対して抱く疑念にも共通するわだかまり。知らなさ過ぎることは構わない。だが、知っていすぎることは大いに構うのだ。
 リズヴァーンには、鬼だから、という理由にならないこじつけができる。知盛には、子飼いの間諜がいるのだろうという、根拠にしては弱すぎるこじつけができる。だが、望美に対してこじつけられる龍神の神子だからという言い訳は、自身の身空を振り返ることでおのずと否定することしかできなくなる。
 神子は巫、巫は器。器はあくまでヒトならざる力を人の世に齎すための変換機なのであり、力が通り過ぎるという以外の特異性を持たない。人の世にかかわるには、あくまで人としての己の力を使うしかないのだと、他ならぬを神子と定めた神こそが言っていたのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。