たゆとういのり
どこで何を、どう踏み外したのか。過ぎ去った日々を振り返って、「もしかして」「もしもあの時」と悔やむことはできる。だが、振り返ったところで時間は巻き戻せない。どうしてこんなことになってしまったのかと、悔やむ心を押し殺し、這いつくばってでも前へ進むことしかできないのだ。
ふと、は身の裡に眠る焔を思う。あらゆるものを容赦なく飲み込むこの焔は、この禊のために下された天意なのではなかろうかと。
は、己の持つ焔の他に、怨霊を確実に滅却する力は白龍の神子の封印しか知らない。そして、あまりにも有名に過ぎる白龍の神子の力を警戒することは可能でも、主の方針により極力秘すことに専念し続けたの力の真実を知るものは皆無であり、それゆえに警戒することはできないだろう。だからこそ、油断させて懐に入り込み、容赦なく薙ぎ払う禊となりうる。まして、平家の将としていくつもの軍場を駆け、他ならぬ清盛からも褒章を賜ったことのある身とあれば、なおのこと。
そこまで思い至って、は小さく唇を歪めた。帰れるかもしれないのに帰れないかもしれないと、そう嘆いた日は遠くないのに、今はその可能性さえも利用しようとしているしたたかな自分がいる。
大切な人がより光に満ち溢れた未来を歩いてくれるというのなら、そのために恨みを買うことも血路を拓くことも選び取ることができる。それが、が傍に在りたいと願った刃の優しさであり強さだ。
けれど、そのためにあの人があの人の大切な誰かを傷つけることを選ぶのなら、その時に悲しみを押し殺すあの人の横顔は見たくないし、激情を押し殺すあの人の気配は感じたくない。ならば、自分がその役を負えばよくて、けれどその自分をあの人がどんな目で見やるかは知りたくない。その矛盾を内包してなお道を貫くのに、なるほど今の自分は何と都合のよい場所に立っていることか。
「封印が適わなかったとしても、わたしならば『滅する』ことが適います。……その折にはどうぞ、この身を駒として策謀を巡らせてくださいますよう」
静かに付け加えた言葉はさすがに弁慶の予測の範疇を超えていたのか、しばしの沈黙と凝視が与えられる。
「平家の将であるあなたが、一門を敵に回す可能性さえ厭わないとおっしゃるんですか?」
「たとえ何を失っても、喪うわけにいかない存在を守れるなら、その道を選びます」
それは渇望であり希いであり、欲であった。しかしには他に術がない。他の道が見えない。他の選択肢が思いつかない。だから、葛藤も疑問も罪悪感も、自己矛盾さえ踏み倒して進む。貫き通すことで、せめてはそれを己が道だったと迷いなく断言できるように。
再びの沈黙に滲む煩悶の気配の向こうから、ようやく投げ返されたのはとても静かな同意だった。
「よくわかりました」
そして、弁慶はようやく常と同じ穏やかな微笑を浮かべる。
「本当はもう少し違うお話を、と思ったのですが、想像以上の収穫でしたよ。ありがとうございます」
「ご満足いただけたなら、幸いと存じます」
「また、そういうご謙遜を」
くすくすと笑って肩を揺らし、しかし瞬きをひとつはさんで弁慶はすぐさま怜悧な軍師としての表情を纏って言葉を重ねた。
「僕は、京の平穏を願っています。そのためには、どうしても応龍の復活が必要なんです」
それは優しくて切実な願いであると同時に、そのためになら手段を選ばないと言い放つ酷薄な宣言だった。向けられる思いのすべてを真正面から受け止め、は弁慶の言葉の続きを聞く。
「そのためには、どうあっても清盛公が最大の障害として立ちはだかることでしょう。穏便に済ませられるならばそれが一番だとも思いますが、状況次第では強硬手段をとることも厭うつもりはありません」
「……被害を最小限に、最大限の幸福を望むのは同じです。互いの利益が一致するのですから、共同戦線を張ることも選択肢のひとつでは?」
仄暗い笑みを浮かべてがひんやりと切り返せば、頷きながら弁慶もまた薄っすらと嗤う。
互いの思惑のすべては読み取れない。けれど、思惑の方向性が同じであることは察している。馴れ合うことはなく、預けあうわけではない。だが、相手の敵が自分の敵でもあると判じたならば、援護しあうことに否やはない。
シンプルでドライ。それゆえに、状況さえ整えばどこまでも判りやすく信頼の線引きができる。言葉にされなかった部分を正しく理解しあっていればこそ、二人の嗤いは自嘲に濡れても他意は孕まない。
「今はまだ、詳しいことは互いに秘したままでいましょう。僕も、状況の推移を見守る段階ですからね。ですが、いざ状況が予断を許さなくなったなら――」
「互いの奥の手を利用しあい、そして願う未来のため、ありとあらゆる手を講じましょう。たとえそれが、誰からのそしりに繋がるのだとしても」
言ってさらに深く嗤いあい、二人はすっかり冷めてしまった椀の中身を思い出したように啜る。
「存外、気が合うようですね。どうです? このまま僕と恋をしてみるというのは」
「魅力的な提案ですけれど、遠慮しておきましょう」
軽やかに笑う声も、いたずらげに瞬く瞳も、純粋に魅惑的だと感じながら、はあっさりといらえて部屋の奥の柱に打ちつけてある一枚の紙を振り返る。
「今は、リズヴァーン殿にお願いして“大人の男も恐くないプログラム”強化期間中ですもの」
笑い含みの声が読み上げたのは、墨で塗り潰された二行を経た後の、紙面の中央の一文。
「僕としては、どうしてあの一覧の中に僕とヒノエの名前がないのか、望美さんにその思うところをとことん問い詰めたいところですが」
紙からはみ出さんばかりの勢いで元気よく綴られた文字は、ご丁寧にもカタカナ部分をすべてひらがな表記にして、のためのパターン別男性応対訓練メニューがしたためられている。大袈裟な溜め息混じりに告げられたとおり、そこには譲、敦盛、リズヴァーン、果ては白龍の名や梶原邸に常駐する郎党の名まで連ねられているのに、京にいる残りの八葉であるヒノエと弁慶の名はない。
特にメニューに組まなくとも接触率が高いことや、当人の元の性格ゆえか、過剰な反応を示しがちのをもってしてさえ警戒心を解かせることに長けていることからあえて除外されているのだが、そんな思惑さえ見越した上での嘆きは、その白々しさが笑いを誘う。何より、こうして二人きりの空間でも他愛なく会話をこなせるのだから、もはや弁慶では訓練の対象にならないのだ。
「まあ、無理はしない程度に、とだけ釘を刺しておきますよ。僕に言えた話ではないでしょうが、心の問題ばかりは、何がどう薬になるかは誰にもわかりませんからね」
「ええ、わかっています。お気遣い、ありがとうございます」
腕利きの薬師としての表情に立ち返って与えられた助言に、は素直に頷く。こうして折を見ては様子を伺いに来て、それとなく望美や朔をはじめ、梶原邸に集う面々にの精神負担が過剰にならないよう指示を出してくれていることはなんとなく察している。
嘯いて見つめる瞳は、言葉の意味以上に深い思惑を孕んでいるようだったが、その内訳までは読み取れない。仕方ないので字面どおりの意味に頷いて礼を送ったにほんの少しだけ歯痒そうな表情を垣間見せ、けれどそれ以上は何も言わず。弁慶は空になった二つの椀を抱え、辞去の挨拶を告げてからあっさりと腰を上げた。
Fin.