朔夜のうさぎは夢を見る

たゆとういのり

「院が京にお戻りになりました。近辺の貴族の皆様も浮き足立っているご様子。となれば、院宣が遠からず下されることでしょう」
 淡々と、実に平淡な口調で告げられたのは、邸から外に出ることのないでは決して入手することの適わない類の情報だった。軽く目を瞠り、それから思わず息をこぼしては「そうですか」と小さく相槌を打つ。
「九郎からも景時からも連絡はありませんが、ヒノエの情報によると、鎌倉でも和議に向けての準備が進められているとのこと。福原も、相当にバタバタしているようです」
「和議が真に成るのであれば、これまでとは方針が真逆に転換されるということ。混乱は、致し方ありますまい」
 院の帰京に合わせて京に入っているはずのヒノエにはまだ会っていないが、弁慶がこれだけの情報を得られるということは、相変わらず、そこかしこに目を光らせているということだろう。今回の主役は、当事者である源平両家と仲立ちである院だけではない。院を説得し、源平両家の重鎮に秘密裏に話を通すという役どころを担った熊野もまた、決して外すことのできない影の主役。
 今頃、その独自の伝手でもってことの裏側を知る貴族とでも繋ぎを取っているのだろうことは想像に難くない。まったくもって侮れない、そして頼もしい別当だと感心していたは、しみじみと実感の篭もった一般論を返す。だが、それに対して与えられたのは、鋭いという言葉では足りないほどの、強く張り詰めた視線だった。


 ひたと合わされた双眸は、ぎらぎらと輝きながら奈落のような得体の知れない昏さを孕んでいる。何事かと、今度こそ驚愕に目を見開いて息を詰めたに、視線同様、危うい強さを湛える声が突きつけられる。
「それには同意しましょう。ですが、その混乱に乗じて、僕達がこの話を呑んだ際に提示した条件を忘れていただいては困るのです」
「……条件?」
 咄嗟の理解が及ばなかった、しかしそれこそが核心とすぐに読み取れた言葉を繰り返し、は小首を傾げる。
「そうはおっしゃられても、あの時に提示された益は、あくまで和議が成った後にはじめて成り立つものです。それは、あなた方も了承済みと思っていましたが」
 三種の神器の変換にしろ、帝の帰京にしろ、和議が成立し、平家一門の安全が保証されるまでは適うはずがない。源氏が神子を掲げるように、平家にとって、三種の神器という正当な証を携えた帝の存在こそが、譲ることのできない大義名分なのだ。
 それ以外の条件に関してはなおのこと。そして、あの場に集っていた源氏勢の中で、こういった交渉事に最も長けているとが判じていたのは他ならぬ弁慶である。その程度の暗黙の了解は、すべて承知おいていることとばかり思っていたのだ。
「いえ、それではありません」
 だが、弁慶はなおも首を横に振る。それは承知している。そして、そうではない条件を示しているのだと。


 言われて改めて首を捻りなおすに、いっそ凄絶な自嘲の笑みを浮かべて、弁慶は告げる。
「龍脈を正し、応龍の復活に協力するように、と」
「……ああ」
 そういえば、望美がそんな言葉を紡いでいた。言われればすぐさま思い出すことができ、は納得の声を上げる。
「しかし、お言葉ですが、怨霊を封じられるのは白龍の神子である望美殿のみ。忘れる、忘れないといった話ではないと思います」
 いくら自然発生する怨霊も存在するとはいえ、その量比からしても、平家の使役する怨霊が五行の流れを歪めているのは自明の理。ゆえに、望美の提示した条件を履行するには、今や平家にとって欠くことのできない戦力である怨霊兵達を封印する必要がある。だが、それは望美という存在があってはじめて適う条件なのだ。
 和議が成立して互いに不戦を確信しあわない以上、平家としては戦力をいたずらに手放すことを認めるはずがなく、源氏としてはせっかくの神子を敵地にみすみす放り込む愚を犯すはずがない。それは、源氏の軍師である弁慶こそが最もよく把握していることであろうに、一体彼は何を言っているのか。


 結局いつまでたっても弁慶が暗に匂わせている本題が掴み切れず、はさらに混乱しながら三度首を傾げる。
「申し訳ありませんが、おっしゃりたいことを推察しかねます。一体、何を申されたいのです?」
 このまま噛み合わない会話を続けることに意味はないだろう。早々に判断し、率直にその言わんとするところを問いかければ、逆に訝しげな表情を浮かべて弁慶はそっと言葉を綴る。
「応龍の復活、と。その意味するところは、わかっておいでですか?」
「白龍が正しく龍の姿へと戻れるよう、龍脈の歪みを正し、還るべき五行を余すことなく龍脈に返すこと」
 念押しは、くどいほどに深かった。そしては思い出す。そういえば、彼は平家の棟梁がいまだに『健在』であることを知っていたのだと。
 ならば今さら隠すことはあるまいし、まして彼はそれを外側から客観的に見ているのだから、下手に繕う体面もない。さらりと理屈を読み上げ、けれどは視線を伏せる。
「無論、そのためには清盛公をはじめ、一門の皆様にとってあまりにも重い方々の封印をも意味するのでしょうが、知盛殿も将臣殿も、それは重々承知の上でございましょう」
 手の届くところにあった存在が失われることをあまりにも嘆き、あまりにも惜しみすぎたがゆえの結末が、死反しの術による怨霊化なのだ。その選択へと至ってしまった平家にとって、すべてを真っ向から否定する結末は、受け入れがたい苦痛であることだろう。だが、そうした禊を経なくては手に入らない未来があることもまた厳然たる事実であり、平家の未来を見据える還内府と新中納言は、その禊をこそ選択したのだ。
 違えられることはあるまい。違えるには、彼らはあまりにも高潔に過ぎ、情が深すぎる。それが必要であると判じたならば、己が手でかの人達を黄泉に送り返すことをこそ選ぶ。彼らの優しさと強さは、その悲しいほどの誠実さにこそ集約される。

Fin.

back --- next

back to 遥かなる時空の中で index
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。