たゆとういのり
院が熊野に滞在する期間はその相手を務めねばならないというヒノエを除き、望美達は早々に京への帰路についた。打ち合わせどおり、和議を勧告する院宣についての報告文書を携えた景時と別れ、しかしこうなってしまえば望美のなすべきことは、怨霊を封じては龍脈の乱れを整えるという、純粋な白龍の神子としての責務のみである。
既に山々は緑葉を紅や黄に染め、往路ではあれほど苦しんだ日差しと熱気が嘘のように、涼やかな秋風が吹いている。京へと戻り、主だった将兵に留守中のあれこれを言いつけるやすぐさま鎌倉へと発った九郎からの便りはない。正式に院宣が下されていない以上、噂も立つはずもなく、誰もが戦と戦の合間にありがちな、ぽっかりと訪れた束の間の平穏と目す時間が流れている。
将臣たちも、福原へと戻って根回しに奔走しているのだろう。龍脈の乱れや戦乱の余波として生じる怨霊はいまだ絶えなかったが、新しい、いかにも平家が意図的に生み出した怨霊との遭遇率は、熊野を詣でる前に比べれば無に等しい。日々町中を駆け回っては怨霊の封印に勤しむ望美からそんな報告を受け、嬉しそうににこにこと笑い続ける白き龍を見やり、そしては何事もない日々を過ごしていた。
いくら武将としての経験があったとしても、仮にも捕虜の身であればこそ、望美と共に町中に繰り出すわけにもいかない。畢竟、六条櫛笥小路は梶原邸にてひたすら時流を見守ることしかできないは、鎌倉へと発つ前の九郎に預けられた布から直衣を仕立てることに専念している。
「休憩にしてはいかがですか?」
根気よく針を差しては縫い取りを続けていたは、仄かな笑みに縁取られた声に目を上げた。気配からも状況からも察することはひどくたやすい。庭に面する簀子に立って室内を覗き込んでいるのは、いつでも穏やかな微笑を崩さない切れ者の軍師だった。
「疲れ目に効く薬草が余ってしまいまして。よろしければ、作業の助けにでも」
言って踏み込んできた弁慶の手には、ほかほかと湯気を立てる二つの椀が載せられた盆がある。腰を下ろす場所を空けようと作業中だった布を手繰り寄せれば、その空間に裾捌きも鮮やかに、器用に納まった青年は笑う。
「どうです? はかどっていますか?」
「それなりに、といったところでしょうか」
薬草が余ったと、それはどうせ詭弁だ。軍師という役職ゆえなのか、生来の性格なのか、弁慶はとにかくよく気が回る。細かな作業を続けていれば目が疲れようと、そう気遣っての差し入れなのだろう。告げられなかったゆえその真意には触れず、はただ差し向けられた厚意を素直に受け取り、余すことなく謝意を返す。
「ありがとうございます。ちょうど、喉が渇いたと思っていたところです」
「それは良かった」
渡された椀の中身は、熱すぎず冷たすぎず、ほっと息をつきたくなる、実にちょうどいい温度だった。一口含んで独特の苦味と、それを緩和させるために混ぜ合わされているのだろう種々の香草の風味を楽しみ、は笑みを向ける。
直衣を仕立ててほしいと、そう言いつけられた時には驚いたものだが、よく考えてみればそれさえもこの切れ者軍師の差し金だったように思える。事実、あまり衣装の類に頓着しない性質らしい九郎が和議のために遠からずそれなりに形式ばった装束を必要とするのは明白だったが、手持ちにないならばないで、いくらでも用立てる伝手があるはずだ。
なすべきこともなく、自由に動き回ることもままならず。ひたすら時間を持て余すの立場を上手に利用するという意味ではこの仕事はまさにうってつけだったが、必要な道具の一切を揃えた上での言いつけなど、それこそそんな仕事にはまるで縁のない九郎にはなかなかに難易度の高いことだろう。諸々の状況を鑑みた上でも、その依頼の裏に弁慶の暗躍を思い描くのは、ごく自然な帰結と感じられたのだ。
「良い仕立てですね。九郎はこういったものには無頓着なのですが、さすがに栄華を極めた平家の姿を知っていらっしゃる方は、一味違う」
「それならば、これだけの生地を用立てられた九郎殿のお目の高さをこそ讃えるべきでしょう。すがしい、実に良いご趣味をお持ちだと思います」
「さんは、こういう織りがお好みですか?」
作業途中の衣を見やっただけで仕立ての方向性を判じる鑑識眼には恐れ入るばかりだが、そういえば、弁慶もまた熊野別当家にゆかりのものだと聞いている。交易品をはじめ、審美眼は嫌というほど培われているのだろう。そもそも手を抜く気はなかったが、これでますます気合を入れて取り掛からねばならなくなったと思いながら、はさらりと空いた手で布地の表面を撫でる。
「わたしの好み、と申しますより、いかにも武門の方という印象を受けましたので」
絢爛豪華というよりは、質実剛健。見目を華やかにするための趣向を凝らすよりも、手触りや丈夫さをこそ重視したのだろう布の選び方には、九郎の性格が真っ直ぐ反映されているようで微笑ましかったというのがの偽らざる感想である。それでいて安っぽさを感じさせないのだから、無意識のものかもしれないが、九郎もまた目利きであるということだろう。
虚飾よりも実利を好むという点は、あるいは優秀な武将であることの条件のひとつでもあるのかもしれない。そんなことまでぼんやりと考え、そして浮かべる笑みをほんの少しだけ翳らせる。
もっとも、表情を歪めたのはほんの一瞬のことだった。すぐさま常の微笑を纏いなおし、は改めて正面に座す青年へと目を向ける。
「して、いかなご用件でしょうか?」
「おや。用件がなければ、お訪ねしてはいけませんか?」
つれないことをおっしゃる、と。軽やかに笑いながら言われても、説得力など欠片もありはしない。こういう駆け引きじみた、言葉の裏に単語の意味以上の思惑を潜ませた会話が好きなのだろうことは存分に察せていたが、同時に弁慶が決して無駄な行動を取らないこともは知っている。
「物騒な用向きのないおとないならば、どうぞ花々の集う宵の口にでも」
そっと周囲の気配を探れば、とっくに完全な人払いがされているのがうかがえる。密談の場を調えたとあらば、これは源氏の軍師として、月天将たるに用件があるということ。よってそう切り返せば、一層おかしげに笑みを深め、そして弁慶はふと表情を掻き消す。
Fin.