朔夜のうさぎは夢を見る

彼らの目指す先

 思い返すに、将臣が知盛の切れた姿を見たのは、あれが初めてだった。戦場でも頭の線が一、二本ばかり切れたような恍惚とした表情を浮かべているが、知盛の行動から理性が完全に払拭されたことはない。
 どれだけ本能に忠実に動いているように見えても、そこには余人の目からは実にわかりにくい、知盛なりの方程式が貫かれている。それこそが知盛の理性であり、あるいは計算でもあるのだとおぼろげながらに察している。その知盛が、業を煮やしたと雄弁に語る怒気を振りまきながら、年長者が打ち揃っているという状況さえ突破して、手元にあった漆塗りの杯を叩き割ったのだ。

――いい加減になされよ。

 かろうじて腰を上げることは堪えているのだと、その、必死に激情を殺す声は言葉の裏で高らかに宣していた。

――京を追われてなお我ら一門の存在をお守りくださる帝の御身をこそ、第一に考えるべきではないのか。我らの意地に付き従ってくれているすべての者の安寧を、考えるべきではないのか。

 敵味方を問わず鬼神と恐れられ、あるいは崇められさえする男が本気で解き放った怒気は、年齢や立場の違いを薙ぎ払って場を支配するに相応しく、また余りあるものであった。持ち上げられた深紫の双眸は、殺しきれない激情に焦がされていっそ殺気立ってすらいる。

――己が身の利が一番と申されるなら、鎌倉にでも参られよ。方々の知る一門の内情を売れば、財を得るはたやすかろう。

 その殺気さえあまりに鮮やかな存在感に彩を添える要素に降し、知盛は凄艶に嗤った。

――お忘れめされるな。我らは勝利によって和議を勧告する立場にあらず。敗北を免れ、和議を勧告される立場にあるのだと。

 そして、最後にそう言い放つと、二つほど呼吸をはさんでからふと怒気を収めて深く頭を垂れ、「過ぎたことを申し上げました。暫し、頭を冷やしとうございます」と慇懃に席を外す口上を残し、簀子へと姿を消してしまったのだ。


 さすがに話の内容が内容のため、郎党をはじめ、徹底的に人払いをしてある一角には当事者以外の存在はない。そのまま知盛の残した余韻に支配されていた面々がようやくまともな思考を取り戻したのは、それでもどこかしらに理性を残していたのか、叩き割られてしまった杯の片づけを命じられてやってきた女房の、入室の許可を乞う声がかかった頃のことだった。
 はたと我に返り、それぞれがなんとか威儀を正して体面を取り繕ったところで床を拭いてもらう。すべてを心得ているとばかりにさっさと退室した女房の気配が先の角の向こうに消えるのを待ってから、次いで口を開いたのが忠度だったのだ。いわく、もう良いではないか、と。
 立場的なものからも知盛の案の中での真の優先度を知っているという事情からも、ここは自分が纏めるしかないかと頭の中で説得の文句を用意していた将臣は、思わず瞬きを繰り返して声の主を振り仰いだのを覚えている。

――和議とならば、誰かの命で一門の罪を禊ぐこともない。なれば、我らが身を退くことで、せめてもの禊の代わりとする必要があろう。

 ひどく穏やかな声でそう重鎮達に語りかけ、そして忠度は将臣をはじめとした、呆気に取られて目を見開いている若い面々に笑いかけた。

――まだ、これでも我らの知恵と経験は使えよう。それを忘れず、だが、この先はそなたらで担うといい。兄上も、すべて総領の下知に従えとの仰せだったのだからな。

 その最後の一言こそが、とどめだった。将臣がどうすれば角を立てずに使えるかと考えていた“還内府”の名を実に有効に使い、忠度はそれでもなおと反撃の機を見計らっていた全員の口を塞いだのだ。すなわち、総領の人選に逆らうことは、清盛の意に逆らうことであると。
 お蔭でほぼまったく反対意見が出ないという状況が整い、ではこの機会をこそ見逃すまいと迅速に動いた重衡と経正を中心に、知盛が不在のまま話し合いは終息を迎えた。結果は、知盛が描いていたのとは少し違う、けれど大意は汲んでいるだろう人選に落ち着いていた。


 知盛が戻る前に纏ってしまった話し合いの結果を携えて、「知らせて参りましょう」と席を外したのは重衡だった。同時に宥めたりたしなめたりすることも視野に入れていたのか、同行を申し出た将臣には丁重な礼と断りを返し、代わりに席を締めておいてくれと言い置いてさっさと立ち去ってしまう。
 まあ、主題になっていた話は終わったし、後は当人同士での細かな打ち合わせと留守を任せる話。となると、知盛がいなくては進まない。つまるところ、話すことがなくなったからという実にいい加減な理由での解散となったのである。
 どうやら頭を冷やし、重衡にやんわりと色々な小言をもらったらしい知盛は、その後、一人で叔父達の許に赴いて侘びと礼とを述べて歩いたようだった。笑いながら酒の差し入れと共に報告にきてくれた忠度は、労ってやれとこうして知盛を訪ねる理由を将臣に与えてくれたともいえる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。