朔夜のうさぎは夢を見る

彼らの目指す先

 ぞくりと、身を震わせたのは一体なんだったのか。恐怖か、悲しみか、憐憫か同情か。体温を失った指先を小さくすりあわせ、将臣は奥歯を噛み締める。
「そう、お気を落とされませんよう。此度の和議は、なんとも得がたき僥倖ではございませんか」
「そうですよ。我らにできることは、この機を逃さず和議を成し、兄上の許に胡蝶殿を確かにお返しすることでございましょう」
「……それで、解決すんのか? 根拠とか、あるわけじゃねぇけどさ」
 慰めと、しかしそこには本音も確かに含まれているのだろう。溜め息ひとつで表情を入れ替えた真摯な声で宥められ、けれど将臣は胸の底で一向に溶けようとしない氷の存在を知る。
「なんか、引っかかるんだよ……」
 無論、重衡と経正が事態を楽観しすぎているとは思わない。晴れない表情は彼らもまた同じように先行きに不安を覚えていることを如実に語っているし、男女間で起こったことの心の機微は、その圧倒的経験によって、彼らの方が将臣よりもよほど正確に察していることだろう。だが、そうではない。それではない何か別のわだかまりが、熊野からこちら、ずっと将臣の胸の片隅に巣食っているのだ。
 掴めそうで掴めない。霞の向こうに幻影を追いかけるようなもどかしさを覚えてぎりぎりと歯を鳴らす将臣を気遣わしげに見やり、経正と視線を交わしてからふと思い立った調子で重衡は声を上げる。
「では、こういうのはいかがでしょう?」
 にこりと浮かべられた笑みは鮮やかで、きっとこの表情で数多の花を散らしたのだろうと確信を抱かせる麗しさ。そして、その向こうに光る怜悧な智将としての姿を知っていればこそ何を言い出すのかと警戒と好奇心とを半分ずつ蠢かせた将臣は、ひそひそと告げられた提案に思わず手を打ち合わせていた。


 さすがに表立って疑問を声高に唱えるものはいなかったが、知盛が個人的に掌握したという情報だけでは、和議ほどの大きな話の信憑性は確かとはいえない。そのあたりの裏づけとまだ信じきれずにいる相手への説得だの、西国で平家に味方すると断言してくれていた豪族への繋ぎだの、とにかく慌しく和議のための身内の基盤づくりを進める将臣と知盛の許に院宣を携えた使者がおとなうとの先触れが入ったのは、紅葉もそろそろ終わろうかという頃のことだった。
 京を離れたとはいえ、元は朝廷の中枢を一門の主だった面々で占めただけのことはあり、幾人か顔ぶれを集めれば、使者を見知っている者も少なくない。お蔭で和議の院宣が本物であることもようやく信じてもらえたのだが、最後の最後まで慎重な姿勢と猜疑心を忘れなかった面々がようやく首を縦に振ったその後は、熊野に出発する以前の慌しさ以上の大騒ぎに発展する始末。
 もっとも、既に和議を確信し、あるいは信じている面々を中心にある程度の事前準備は進めてはいた。それでもなお大いに揉め、最後までもつれたのが、誰を和議のための協議の使者として出すか、という点だった。


 瓶子を幾本も抱え、ぶらりと知盛の私邸を訪ねた将臣は、勝手知ったる他人の家とばかりに先触れの女房に知らせだけを頼み、自分は案内もつけずに北面の曹司を目指す。
「おーっす、邪魔するぜ」
「……何用だ?」
「頑張ってくれた“弟”に、優しい“兄上”からの差し入れだ」
 既に空になった瓶子を脇に二本ほど転がして一人で酒を飲んでいた知盛は、腕の中の瓶子を揺らした将臣に、喉の奥で笑いながら自分の隣を視線で示す。
「お疲れさん」
「“兄上”こそ……お口添えいただきましたこと、まことにありがたく存じます」
「俺は別に、何もしてねぇよ」
 言いながら互いの杯に酒を満たし、軽く掲げて縁同士を触れ合わせる。
「忠度殿が笑ってたぜ。まだまだ子供だとばかり思ってたら、いつの間にこんなにでっかくなったのやらって」
「叔父上方をはじめ、年長の方々にとっては、俺はいつまでも“猫柳の四郎坊”なのさ。どうしたって、覆しようもない」
 くつくつと笑う声は、自嘲を孕みながらもやわらかかった。今でこそ多少はましになったものの、このいかにもふてぶてしい男は、幼少時には無事に長じるかを危ぶまれていたのだという。なればこそ庇護すべき子供という視点が拭い去れないとは、貴賎を問わず一門に関わる古株が口を揃えること。その感覚ばかりはどうしようもないというのは、自他共に認める優しい諦めだ。


 話し合いは紛糾したが、そろそろ時間がないことに腹を括ったのだろう。常であれば何とか折衷案を出す知盛がいつになく強硬な姿勢を押し通し、重衡や経正といった若手の面々がこぞって味方についたのだ。元より将臣は知盛の案に賛成しているし、具体的な人名こそ出さなかったものの、これを機に一門を担う面子の世代交代をしてはどうかと言い出した覚えもある。
 それを受けてのことか、それとも別の思惑があるのかはわからないが、知盛の出した提案は、元の官位があまり高くない者までを網羅した上での、比較的若年層を中心とした構成だったのだ。
 少なくとも、権勢への復帰に重きを置く面々がことごとく外されていた。それが火種だった。
「実際の交渉では、俺は飾り物として以上の価値がないから、お前らには負担をかけるけど」
「そういう役回り……と、いうことだ」
 価値観の違いはどこまでも平行線を辿り、これはいっそ“還内府”としての権限を振りかざすしかないかと思われたところで、知盛が切れたのだ。あれは実に恐かったが、実に見物だったと、将臣は思い出し笑いに口元が緩むのを止められない。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。