朔夜のうさぎは夢を見る

彼らの目指す先

 その場は清盛を追った時子と、「詳しいことはまた後日」と言った知盛の退席によってなし崩しの流れ解散となってしまったが、それこそ詳しい話だの段取りの話だの、細かな雑務は山のように積まれている。第一、熊野に赴くことで留守にした約二月分の雑務が文字どおり山積み状態なのだ。最低限の休息をはさみ、将臣の日常はまずそれらの仕事を地道に片付けることから幕を開けた。
 もっとも、その間にも息を抜いたりすることは忘れない。熊野で見かけた敦盛の無事を経正に知らせることもまた、最重要事項のひとつ。そして、そのついでに重衡も誘い、将臣はこのところ一門の重鎮と論戦を繰り広げているらしい知盛の多忙をいいことに、当人がいる前では口にしづらい相談の席を設ける。
「――と、まあ、そういうわけでだな。敦盛は本当に、何の問題もなく無事そのものなんだけど、胡蝶さんのアレは、どうフォローしたもんかわかんなくてさ」
「それは、何とおいたわしい」
「戦禍としては珍しくないとはいえ、いざ身近になってみますと、言葉にならないものですね」
 深々と息を吐き出して事情説明と状況報告を終えた将臣に、返されるのは顰められた眉と俯けられた視線。


 吉報の詳細に表情を緩めたのも束の間、あっという間に悲しげな様相に戻ってしまった経正は口を噤み、重衡は溜め息をもうひとつはさんでから「なるほど」と呟く。
「ですが、それで得心いたしました。胡蝶殿のご無事を知ってなお兄上のご気色が優れないのは、そういう事情でございましたか」
「あー、やっぱり、知盛結構参ってるよな?」
「参っていると申しますか、こう、嫌な気配がいたします」
 言い差して杯を持ち上げ、酒をわずかに含んでから重衡は再び視線を伏せる。
 まるで、言葉にならない思いが床に書かれているとでもいうかのごとき様子でじっと視線を落としたまま、ゆっくりと重衡は口を開きなおした。
「重盛兄上のご葬儀でお見かけしたお姿に、よくよく似ていらっしゃるように思うのです」
「重盛さんの? てことは、相当ショックが深いってことか?」
 推察することしかできないものの、将臣がまだ還内府と呼ばれる前に、いつだったか知盛に“平重盛”がどういう人物だったかを問うたことがある。その人品を逐一説明するような面倒を知盛が選ぶはずもなかったが、わずかに与えられた単語だけでも、将臣は存分に知盛が長兄を尊敬し、あるいは信奉していたことを知った。人でないような、我らの盲目が人であることを拒絶した、あるいは奇跡そのものであったのだ、と。


 その言を思い返せばこそ問い返す声は低く、表情はどこか沈んだものになってしまったが、対する重衡の声も負けずに細い。
「このような物言いをするのは、不敬にあたるのやも知れませんが……兄上という“皮”だけが残り、まるで、その内がうつほになってしまったかのようなご様子でした」
「私も、覚えておりますよ」
 ゆっくりと表現を確認しながら音を紡ぐ重衡に、黙っていた経正が言葉を重ねる。
「あの時の知盛殿は、あまりにも平然としすぎていて見落としそうになりましたが、人目が退いた折にふとのぞく虚無を纏うかのごとき気配を垣間見た際には、腹の底が凍る思いがいたしました」
 そして、揃って視線がさまよう姿にこそ、将臣は背筋が凍る思いがする。


 考えるまでもなく、知盛はその飄々とした振る舞いと人を喰った言動とで、実に巧みにその本心を隠して歩くのだ。時に周囲がぎょっとするほど欲望に忠実かつ過激な言動をみせるため、外面を最低限に取り繕うだけで生活しているような評価をよく耳にするが、それこそが恐るべき擬態だと将臣は知っている。将臣という存在が何のしがらみも持たない身空ゆえか、気さくに、ほとんど遠慮をはさまずに接してくれる知盛と、それ以外の知盛との間には不可視の、しかし確かな壁がある。
 平家の中にあって平家そのものにはなれない将臣は、そのことに終わりのない燻りを抱え、そしてそれゆえに視える様々なものを手に入れる幸運を掴んでいた。その筆頭ともいえるかの獣への理解が、長く傍を過ごすことで蓄積されたのだろう経験と直観によって、裏付けられていく。
「あの時は私も重盛兄上のご逝去に胸が衝かれ、兄上にお言葉をかけることもできずにいたのですが、人目が煩いとばかりにお邸に戻られて後は、少なくとも私からは何も察せないほどにいつものご様子に戻っておいでで」
「考えてみれば、胡蝶殿のお噂がことさら人の口に上がるようになったのは、それからすぐのことでしたね」
 と、そこまで丁寧に説明をされれば、将臣にも事態の推移と現状から考えられる未来の可能性の推察は、難しいことではない。


 意思とは関係なくどんどん干からびていく口腔を潤そうにも、酒精を含む気にはなれなかった。あまり力を入れて握りすぎても零すだけだと、頭のどこかで冷静に囁く声に従ってどこかぎこちない動きで杯を床に下ろし、そして将臣は声を絞り出す。
「ってことは、なんだ。重盛さんの時に一回心を病みかけて、けどそれは胡蝶さんのおかげで持ち直したってことか?」
「心を病むとは、また、なんとも言い得て妙なお言葉ですが」
 くつりと、寂しげに微笑んでから重衡は神妙な表情で将臣を見据える。
「熊野に参られる前に申し上げましたことを、覚えておいでですか?」
「……アレか? 胡蝶さんがいなくても何も変わらないように見せてるのは、知盛の意地だってヤツ」
「私は兄上ではありません。ですから、兄上のお気持ちの真なるはわかりませんし、お察しすることしかできません。ですが」
 兄上の意地の、その最も深いところを支えるだろう思いに、拠り所たる御方によって刃を立てられたにも等しいことでございましょう。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。