朔夜のうさぎは夢を見る

彼らの目指す先

 平家の血を持つ棟梁と総領の遣り取りを緊迫しつつ黙って見やることしかできなかった一同の中には、しかし臆さずこのぎりぎりの均衡を打ち破る権限を持つ存在がある。あえて立てたと知れる衣擦れに続き、静かな呼気の気配。
「――殿」
 呼ぶ声は穏やかに凪いでおり、場に漂う殺気にも似た緊張感など微塵も感じさせない慈愛に満ちていた。だが、さすがに激昂寸前の状態にある清盛には、たった一度の小さな呼びかけは届かなかったとみえる。反応がないことに、けれどめげずに声はほんの少しだけ大きさと強さを増す。
「清盛殿」
「……なんじゃ」
 それは、清盛が誰よりも大切にする音。不機嫌さはそのままに、それでも律儀に返された声に、尼君はわずかに目元を和ませ、もう一度「殿」と呼ぶ。
「私からもお願いしとう存じます。和議を、お認めくださいませ」
「……時子、そなた、」
「我らは京を出ましたが、逆臣にあらず。院宣が下るというのなら、なおのこと。変わらぬ一門が矜持と忠誠を、世に知らしめるまたとない機会ではございませんか」
 静謐な声がそう諭し、そしていまだ顔を上げようとしない知盛を見やり、続ける。
「知盛殿が、一門の嫡流としての矜持をお忘れになるような方ではないこと、殿もよくよくご存知でございましょう?」
 与えられた確認口調の強い問いかけに何度か口を開けては閉じる動作を繰り返し、沈黙を保ったまま上座での応酬の行く末を見守る一門の者達を見渡し。最後に清盛は、どこか縋るような瞳で将臣を振り返る。


「重盛、そなたはどうなのじゃ? よもや、そなたまで和議を結べなどと言うたりはせぬな?」
「あいにくと」
 小さく息をついて首を横に振り、将臣は還内府としての表情で、今もって平家棟梁たる怨霊に対峙する。どこから狂ってしまったのかと。胸を噛む悲しみには蓋をして、今この場で成さねばならないことを、過たず為すために。
「俺も、和議には賛成だ。既に熊野にも、源氏の総大将や軍奉行にも話は通してある。アンタがどうしても嫌だって言うんなら、俺は“平家総領”としてアンタのことを排除することも厭わない」
 強く言い切って見返す先で、清盛の瞳には絶望と深い悲嘆が広がっていく。見かけばかりはいたいけな子供であるため、その頼りない四肢が感情を堪えきれずに小刻みに震える様子は、素直に痛ましい。この上ない恩義を感じている相手であればこそ、その相手に自分の手で悲しみを押し付けることは苦しい。
 だが、その彼が己の死を否定してまでも必死に護ろうとした一門を守るために最良の道であると、そう見定めた道が目の前に広がり、そこに踏み込む足を彼が阻むというのなら。将臣は、心を鬼にすることをも選び取る。
「頼む、俺達にそんな道を選ばせないでくれ。……これが、アンタが守ろうとしたすべてをなるべくそのまま守るための、一番の道なんだ」
 そして、この道をきっと、あなたが俺の向こうに透かし見ているだろう“平重盛”もまた否定はしないだろうから。


 口には出さず、けれど思いを必死に瞳に篭めて。様々な感情に揺らいでいるのだろう紅の双眸を見つめてから、将臣もまた知盛を倣って頭を下げる。
「重盛、そなたまで……」
 承諾を貰うまでは動くつもりがないと。無音の意思表示を篭めて背筋に力を篭めた平伏には、次いで一斉にさわさわと衣擦れの音が幾重にも折り重なる。
「時子、重衡……そなた達」
「殿、どうぞ。お心を平らかに、どうぞお聞き入れください」
「父上。これ以上の戦乱の日々は、帝の御身にも多大なご負担となりましょう。安寧を得られるというのなら、その機を不意にするべきではございません」
 戦うことしかできないというのなら、誰しも覚悟は決めていよう。だが、戦うことが目的なのではないのだと、将臣は“還内府”として平家の頂に立たされた時から、必死になって周囲に訴え続けてきた。
 皆であの穏やかな日々を取り戻そう。そのために、一門を脅かすものから身を守るためにこそ戦おう。大切な相手を守るために、戦おう。
 その姿に絆されたのは、還内府を絶対的な存在と信奉する末端の兵は無論のこと、意外にも間近で将臣に接し続けていた平家中枢の面々にも少なくなかった。和議のためにと、熊野でも還内府の右腕として惜しみなくその交渉術の才腕を発揮してくれた知盛然り。春の京で院に和議の仲立ちを申し入れるためと、礼儀作法を叩き込んでくれた経正然り、舌戦のための練習相手になってくれた重衡然り。
 周囲に対して大きな影響力を持つ彼らが考え方の方向を変えれば、それに感化される人間が発生し、小さな波紋はいずれ、大いなるうねりとなって一門を飲み込んでいく。これまではきと目にすることのなかった変化の形が、思いもかけないところで大きく開花していることを、将臣は背中に響く衣擦れのさざなみに知る。


 なんとも言いがたい沈黙を経て、やがて吐き出されたのは苦々しさを隠そうともしない呻き声だった。
「………好きにせよ」
 はっ、と。床板しか見えない薄暗い視界の中で、将臣は大きく目を見開く。
「良い。そなた達の考えはわかった。総領の下知に従えと、そう申したのは吾じゃ」
「それじゃあ」
「好きにせよと申した。良い。その代わり、帝の御身や一門の誉れを蔑ろにするような和議は認めん。その辺り、しかと心にとどめおけ」
 ついに堪えきれずに顔を上げた先では、清盛がふいと踵を返して上座の自分の席へと戻るところだった。軽い、あまりに軽すぎる足音が、彼が人の身から乖離してしまったことを静かに訴える。
「父上」
 そして、ほんの微かな衣擦れに続いた、囁くような、あらゆる感情を押し殺した声がその小さな足音を追いかける。
「ご英断、心より感謝申し上げます」
 言って再び響いた衣擦れの後、隣の気配は身じろぎさえせずに静寂を纏う。自分が下手に動いてはその完成されたしじまを壊してしまう気がして必死に息を詰める将臣は、だから。辿りついた席で姿を掻き消す寸前に、小さく小さく洩らされた「ふん」という拗ねたような、けれど優しくてあたたかな鼻を鳴らす音を拾うことのできた己が身の幸運に、薄く唇を吊り上げていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。