彼らの目指す先
声に応えるようにして揺らいだ空気の向こうに焦点を結んだのは、まだ年端も行かぬ一人の少年だった。
「おお、重盛! 知盛も。戻ったのじゃな。熊野はどうであった?」
屈託なく笑い、堂々とした所作で用意されていた座に腰を下ろして問う少年に、将臣と時子を除くすべての面々が一斉に頭を垂れる。
「よいよい、堅苦しく構えることはないぞ。無事に戻ったのじゃ。まずは宴を用意せねばな」
上機嫌に言いながら早速とばかりに扇を打ち鳴らそうとするのを、知盛が絶妙の間合いで「父上」と呼びかけることで遮る。
「どうした。知盛、そなたがそのように何かを急くなど、珍しきこともあったものじゃな。なんじゃ? この父に言うてみよ」
「源氏と、和議を結ぶことと相成りました」
寡黙で滅多に表情を揺らさない息子の珍しい姿に親心をくすぐられたのか、子供のわがままを聞いてやろうという風情で鷹揚に頷いた清盛に、しかし知盛は容赦なく切り返す。常よりもどこか固い口調のように感じられたのは、知盛もまた緊張しているからなのだろう。
将臣がそんなことを考えるだけの沈黙をはさんでから、きょとと目を見開いていた清盛は、ぎりぎりと唇を噛み締めて知盛をねめつける。
「今、何と申した?」
「近く、和議を勧告する院宣が下りましょう。それを受け、源氏との間に和議を結ぶことと相成りました」
「馬鹿なことを申すなッ!!」
地を這うような声での問いに応えて知盛が同じ言葉をなぞれば、かっとその紅の双眸を見開いて清盛は怒号した。
「何を、何を言い出すかと思えば、そなた、そのような世迷言を――ッ!!」
清盛の怒号は、ただの声ではない。生前からしてその圧倒的な存在感ゆえに声のひとつ、言葉のひとつの威圧感が桁違いだったが、怨霊と化した今ではさらに気の揺らぎが明白に伝わってくる。びりびりと、文字どおり空気を震わせた声が、居合わせる面々の肩を容赦ない力で押さえつける。
「一体どうしたというのじゃ? 何ぞ思うところがあるなら、言うてみよ。兵が足らぬなら、怨霊を増やそうぞ? それとも、そなたも重盛を見て、怨霊と化したくなったのか?」
まるで聞き分けのない子供のわがままをあやすように、ふとやわらな声音に戻って息子を見やる瞳は深い愛に満ちているが、その言葉の端々に狂気を垣間見た気がして、将臣は眉を顰める。だが、対する知盛は揺らがない。
「終わらせましょう、父上。潔く、そして禍根なく幕を引くことこそ、我らに残された最後の矜持ではありますまいか」
ぴんと背筋を伸ばし、真っ直ぐに相対して。いかに飄々と振舞おうと、父の言葉に逆らったことのなかった息子が、その命に真っ向から対抗する。
「これが、恐らくは最後の、最良の機会にございましょう。ゆえ、なにとぞご英断を」
言って深く頭を下げる知盛に、しかし清盛は足を踏み鳴らして仁王立つと、やり場のない怒りを持て余した様相で拳を震わせる。
「知盛、知盛そなた、一体どうしたのじゃ! なぜよりにもよってそなたがそのようなことを申す! この父を、失望させたいのか!?」
「そのようなことは、決して」
「なればなぜそのように馬鹿げたことを申すのじゃ!!」
信じられないとばかりに首を振り、清盛はさらに言い募る。
「そなたは良くできた子じゃ。わがままのひとつも言わす、吾らの期待によく応えてくれておる。重盛が還ってからも、そなたはよくよく支えておったではないか」
宥め、あやす声は傍で聞いていてもあからさまなほどの慈愛に濡れているが、ひれ伏す知盛はその色に揺り動かされる気配もない。
「褒美が足らなんだのなら、そう申せば良かろう? 吾はそなたの功労を買っておる。何なりと聞いてやるぞ? ゆえ、そのように聞き分けのないことを申して、吾の信を裏切るでない」
「……何を欲しいとも申しませぬ。お心にそぐわぬのであれば、お手討ちにされることをも覚悟の上。ですからどうぞ、此度の院宣だけは、お心を平らかにお受けくださいますよう、重ねてお願い申し上げます」
座から足を踏み出し、わざわざその目前にやってきてまで垂れられた棟梁からの格別の許容さえ拒絶し、知盛はひたすらに説得を繰り返す。
理性の色を保っていた紅の瞳が、ゆるゆると闇に呑まれ、そして凄惨な色味を湛えていくさまを、将臣は間近にてまざまざと目に映していた。纏う空気が澱み、それに引きずられるようにして室内に篭もる陰惨な気配がさらに翳りを濃くしていく。
思わず腰に手をやりかけたが、旅先でもあるまいし、このような席にまで太刀を持ち込んでいるはずもない。おそらく知盛の口上には、虚飾も偽りも含まれていない。ならば、手討ちにされるのも覚悟の上と、そう言うのならその通りなのだろう。だが、平家一門がここで“平知盛”を失うわけにはいかないのだ。
元々喜怒哀楽の幅の大きな人物ではあったが、怨霊と化してからの清盛は、その振幅に歯止めがかからない傾向にあった。激したその勢いで怨霊としての力を解放されてしまえば、丸腰で頭を下げている知盛には避けるだけのいとまさえ与えられないだろう。
じりじりと、いつでも動けるよう姿勢を変えながら、将臣はこめかみを伝う冷や汗を自覚する。この緊迫感にひびを入れるわけにはいかないから、声のひとつ、衣擦れのひとつさえ立てられない。だが、胸中では喉を嗄らさんばかりに叫ぶのだ。どうか受け入れてくれ。どうか、あなたを見捨てて進まねばならない道など、選ばせないでくれ、と。
Fin.