朔夜のうさぎは夢を見る

彼らの目指す先

 再びわだかまった沈黙の向こうで、やはり、流れを取り戻させたのは上座からの小さな溜め息。
「和議成立のための、条件は?」
「まず、三種の神器の返還。ならびに、帝の御身を京に移し奉らせることと」
「………神器の」
 沈んだ声にあっさりと返した知盛の言葉を受け、呻いたのは誰の声だったか。だが、それは大きな問題ではない。その内容こそが、大きな問題なのだ。
「八尺瓊勾玉は、損なわれているのですよ」
「それに関しましては、かしこきあたりとしかと話をせねばならぬことでしょう。今はどうか、此度の熊野にて得て参りましたこの道行きについて、母上の御意見を賜りたく」
 憂いを強く漂わせる声音からして、時子が三種の神器の返還そのものを渋っているのではなく、損なわれてしまったそれの返還で認められるのかを憂慮していることは明白だった。そこは将臣もおおいに気にかかるところだったのだが、敦盛が欠片を手にしていることから既に察していたらしく、ヒノエはあっさりと「まあ、なんとかなるよ」と笑っていた。
 さすがに九郎や景時は難しい顔をしていたが、そこに策謀に長けた弁慶の同意が入るとなると違ったらしい。とにかく“三種の神器が朝廷に存在しない”という状況が最も好ましくないのであり、その最悪の状態を脱せるなら、院も多少は大目に見てくださろうというのが弁慶の理屈だった。それも確かにもっともなことではあるが、それでいいのだろうかという疑問は尽きない。


 同じ煩悶に行き着いたのだろう時子の心中を察して眉を顰める将臣の視線の先で、しかし知盛はぴくりとも動かない。返答を貰うまで、顔を上げるつもりはないのだろう。黙してただ待つ背中から目を引き剥がし、ちらと見やった反対側では一門の陰の棟梁と呼んでも差し支えないだろう尼君が、静かに瞑目している。
「知盛殿と還内府殿が決められたことに、どうして私が否と申しましょう」
 ふっと、瞼を持ち上げた向こうからのぞいたのは慈愛の瞳。そして、どこまでも穏やかな声が静かに一門の行く先を指し示す。
「これ以上戦が起こらないというのなら、それに越したことはありません。和議が成るのなら、それは最も善きことでしょう」
 声は決して大きなものではなく、太いものでもなく、張り上げられたものでもなかった。それでも、揺るぎない強さに貫かれて、集う面々の鼓膜を過たずに打つ。
「礼を申し上げましょう。知盛殿、還内府殿。――よくぞ、その道を選んでくださいました」
 呼びながらそれぞれを見やり、そして時子はその場で深く頭を下げた。


 その姿に誰よりも慌てて思わず腰を浮かせた将臣は、だから、その背後で起こったどよめきを気に留める余裕もない。
「尼御前、そんな。顔を上げてください!」
「いいえ、いいえ将臣殿。ただ漠然と戦の終焉を祈ることしかできず、何をすることもできなかったこの身の何と不甲斐ないこと。刃にて我らを護るだけではなく、その未来をも守ってくださったそのお心に、どうして頭を下げずにいられましょう」
 小刻みに震える細い肩に合わせて震える声は、掠れているようだった。万感の篭もった言葉に胸を打たれて声を失い、どうすればいいのかと困り果てて視線を流した先では、ようやく顔を上げた知盛がどこまでも凪いだ瞳で己が母を見つめている。
「母上、どうぞ、お顔を」
 しばらく沈黙を保ってから、紡ぎ出されたのは知盛がごく親しい相手にのみ使う、ひどく穏やかな声音だった。やわらかく促されて顔を上げた尼君の眦に光るものにそっと双眸を眇め、知盛は静かに続ける。
「まだ、成ると決まったわけではございません。出来うる限り一門にとってよきようにと計らっても、どうにもならぬこととてあるでしょう。あるいは、一門にとって悪しき選択を持ち帰ったのやも知れませぬ」
 ふっと自嘲の色が走った瞳を見つめてゆるりと首を振る母に薄く微笑み返し、知盛は頷く。
「和議を、と。その選択を持ち帰ったからには、必ずや、身命を賭してこの道を一門にとっての光の道と成す所存にございます。ゆえ、どうぞ、一門の命数を、我らの手に託してはいただけませぬか」
 言いながらじっと時子の瞳を見つめ、そして振り返って声を失っている一門の重鎮達に。その全員から見えるだろう位置までじりじりと膝を使って下がり、再び知盛は深く頭を下げる。


 それは、平家に拾われてわずか四年足らずの年月を送っただけの将臣にとってもそれなりに衝撃的な光景だったが、知盛とさらに深い付き合いを持つ面々にとってはより衝撃的な姿だったのだろう。唖然と見開かれた数多の双眸が、信じられないものを見ると雄弁に語りながら知盛に降り注いでいる。そして、それらを振り切るようにして響く衣擦れの音に、将臣はぼんやりと首をめぐらせ、さらに目を見開く。
 時子と、そして知盛から見て将臣とは反対隣に座っていた重衡が、同じように一同に向かって頭を下げていたのだ。清盛の正室と、今や二人だけとなってしまった正室腹の清盛の子息が揃って頭を下げる光景など、帝か清盛に対峙する以外の場面でしか見たことがない。
 きっと、こんなことさえなければ見ることなどありえなかったのだろう。そうぼんやりと考えながら、将臣は知盛の覚悟の深さとそれを汲んだ時子と重衡の思いの深さを知る。そして、同じく膝を使って向きを改め、「我らの手に」と称してもらった自分を誇りながら、額を床にこすりつける。


 誰も声を発さないものの、空気だけが如実にざわめく沈黙の果てに、絞り出されたのは老練なる武将の声だった。
「義姉上、どうぞお顔をお上げください。還内府殿も、知盛殿、重衡殿も」
 深く穏やかな声に促されておずおずと顔を上げた将臣が見たのは、驚愕を拭い去り、静かな思いを湛えた笑み。
「一門が総領のお言葉に、なぜ我らが逆らいましょう。まして、義姉上が同意されたのなら、なおのこと」
 なあ、方々。そう呼びかける声に頷きが返り、投げかけられる穏やかな視線の数々に、将臣は懇願が受け入れられたことを悟る。
「だが、我ら以上に説得の難しい方がいらっしゃること、お忘れではあるまい」
「無論」
 穏やかな空気から一変、厳しい表情と声音で突きつけられた現実にはっと目を見開く将臣の隣から、やはりどこか硬質な、しかしすっかり覚悟を決めた声が響く。そして、その声はそのまま、空いていることを誰も気に留めなかった時子の隣にある空席に向かい、揺るぎなく「父上」と呼びかける。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。