朔夜のうさぎは夢を見る

彼らの目指す先

 熊野に入る手前で待機させておいた郎党に合流し、早々に馬上の人となった将臣は、逸る気持ちを必死に殺しながらすっかり板についた手綱捌きをみせる。一刻も早く福原に戻り、旅路の安全を願ってくれた人々にこの朗報を知らせたい。もう逃げ惑う生活はいらないのだと、そう笑ってやりたい。思いが深ければ深いほど心は逸り、手綱を握る手の内にはいらない力が篭もる。
 早く。一日でも、一刻でも、一瞬でも早くこの知らせを。
 その一心で馬を走らせる真っ直ぐな背中に、降り注ぐ背後の視線になど、微塵の思いも割かずに。
 男ばかりの道行きに、体裁を取り繕う必要はない。知盛は公達だが、それ以前にもののふである。野営にも粗食にも文句は言わないし、宿を取る暇があれば先を急ぎたいという将臣の思いを誰よりも正確に汲んでくれている。その気遣いをありがたく受け取り、休息を最低限に絞って昼夜を問わず馬を駆った結果、出立前の予告よりも早い福原への帰還が叶った。


 清盛にせよ時子にせよ、とにかく一門の重鎮と会うのに旅の垢にまみれたままではよくないと、さすがにそのまま邸に入ろうとした将臣の首根っこを捉まえて「身繕いが先だ」と諭しはしたが、知盛もまた旅の疲れを癒す時間を取ろうとはしなかった。
 古株の女房達に将臣が手際よく世話を焼かれる傍ら、残っていた面々の予定を聞き出し、叶う限りでの面会の手はずを整えてくれたのだろう。埃まみれの状態から脱却した将臣が先導の女房に連れていかれた先には、清盛の姿はなかったものの、その兄弟と時子、そして重衡や経正といった主だった公達が勢ぞろいしている物々しい合議の席が設けられていた。
「よく御無事にお戻りになられました、還内府殿」
 これはさすがにやりすぎではないかと、内心で打ち揃う面子の凄まじさに若干及び腰になった将臣だったが、そんな表情はおくびにも出さない。たおやかにかけられた最上座からの声に深く頭を下げ、空けられていたその次点となる席に腰を下ろす。
「ただいま戻りました」
「ご挨拶がこのような場となり、申し訳ありません。母上」
 腰を落ち着け、改めて頭を下げて挨拶を送れば、その声に被せるようにしてゆったりとした口上が降ってくる。顔を上げつつ振り返った部屋の入り口に立っていたのは、将臣の隣に残っていた最後の席の主。こちらも旅の最中のむさくるしい様子からは一変し、こざっぱりとした出で立ちの知盛が艶やかに微笑んでいる。


 するりと足を進め、最後の空席を知盛が埋めたそれが、合議開始の合図となる。ぴりっとした緊張感が座に漂い、心地良いそれにわずかに瞳を細めてから、口火を切るのは知盛。
「近く、和議を命ずる院宣が下りましょう」
 あくまで時子に報告するという姿勢を貫きながら、まず切り出されたのは核心の一言だった。説明の足りない、自己完結をしがちな知盛の物言いに慣れているとはいえ、さすがにその報告は予想の範疇を大きく逸脱していたのだろう。唖然とした沈黙の後に、一気にざわめきのうねりが起こる。
「熊野は、平家には与しませぬが、源氏にも与せぬとのこと。あくまで中立の立場を貫き、その上で、和議の仲立ちに尽力すると」
 周囲の反応を見ているだろうに、気遣う様子はなく、ざわめきが退いたところでさらに追撃の言葉を放つ。それを受けて再びざわめく座ににたりと口の端をわずかに吊り上げ、しかしさすがにこの場では慇懃な態度を崩さない。
「私も、還内府殿も、その話を受けるよしにて別当殿と合意いたしました。つきましては、事後報告と相成りましたが、御理解と御協力をいただきたく」
 けろりと言い放ち、そのまま深く頭を下げて時子からの返答を待つ姿勢に入った知盛に、ざわめきは掌を返したような沈黙へと塗り替えられる。


 しばらくか、それともあるいはほんの瞬くほどの時間だったのか。異様なほど緊張しているため時間の感覚が狂いつつある将臣には、それが判じられない。ただ、沈黙に耐え切れず言葉を添えようと息を吸いかけたところで、上座から小さく衣擦れの音が響く。
「それは、まことですか」
「それ、と申されますと」
「和議のため、熊野が動くと。そして、院宣が下されると」
「起請誓紙に、別当殿の立会いの許、名を記して参りました。同じき事を、別当殿も御自ら。なれば、裏切られることはございますまい」
「院宣は、いかに」
「別当殿が、院に働きかけてくださるとのこと。また、此度の源平の諍いは、京を守護する応龍の復活を阻むものと、黒白の龍の神子殿が申しておいででしたゆえ」
「……熊野と、龍神と。それらの神意をもって、和議をなさんと申されますか」
「神意とあらば、信心深き法皇様は無碍にできなんだご様子。内々にではございますが、京に戻り次第の院宣をとのお言葉をいただいたと、熊野より知らせを受けてございます」
 最後に放たれたのは、将臣もまだ知らなかったとどめの一言。驚愕を貼り付けて額づいたままの頭を見下ろしても何の答も得られないが、知盛がそんな性質の悪い冗談を弄したりはしないことも、よくわかっている。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。