朔夜のうさぎは夢を見る

やさしきやいば

 一夜が明けて翌朝の、朝餉の席にて。帰還先への距離の問題と顔を合わせているところを下手に見られるわけにはいかないという理由から、将臣と知盛が早々に福原へと発ったことを望美達は事後報告として知らされた。
「もう帰っちゃったんですか?」
 どうせ寝過ごしでもしているのだろうと考えていたところに与えられた事実に望美は目を見開くが、対する八葉の反応は実に淡白だった。あれほど兄の気ままな行動に柳眉を逆立てていた譲でさえ、事情を知った今となっては穏やかな微笑を浮かべている。
「心配しなくても、将臣ならばきっとやりぬく。そう、不安げな顔をするな」
「いえ、そういう心配はしていないんです」
 珍しくも真っ先に宥めにかかってきた九郎にさらりと切り返し、望美は逆に問い返す。
「それなら、私達ももう出発ですか?」
「まあ、早急に、と言いたいところではあるのだがな」
「神子姫様には申し訳ないけど、もう一働き、お願いしたいんだよ」
 しかし、問いに返されたのはどこか歯切れの悪い、諦めを交えた九郎の溜め息。どういうことかと目をしばたかせる先では、ヒノエが仄かに苦笑を滲ませている。


 ヒノエの依頼は、そろそろ到着するだろう院の一行を前に、本宮にて奉納舞を献じてほしいというものだった。一働きというからにはと、それなりに覚悟を決めていた望美は、思いがけず簡単な仕事内容に逆に首を傾げる。
 もっとも、その目的を聞いてしまえば納得がいくというもの。神の寵愛が本物であることを示し、その上で和議という選択肢を迫るための演出と言われてしまえば、もはや苦笑しか浮かばない。
 それでも、神の寵愛といわれても、望美には怨霊を封印することしかその証が思いつかなかった。だが、他ならぬ熊野三山を束ねる神職の頂に立つ別当は、さらりと笑って首を振るのだ。
「大丈夫、熊野は隠り国だよ。神もいるし、あらゆる御霊が行き交っている。そこで神子姫様が舞えば、天地が応えないはずがない」
 神子たる素質というものの自覚のない望美としてはよくわからない根拠だったが、神職としてのヒノエに保証されてなお疑うだけの根拠も持ち合わせていない。よって、求められるまま舞台に上がって舞を献じることを快諾したのだが、それがどれほどの効果を齎すかは、まったく予想できていなかったのだ。


 舞台上で一心に舞う望美の姿を遠目に眺めやり、思わず吐息を洩らしたのは朔もも同様だった。当人の自覚の有無は関係ない。ただ、望美は紛れもなく白龍に見出された神子である。その身に宿す陽の気は、溢れんほどの強大で、圧倒的に眩い。常に全身から滲み出ているその気が、舞という形式を整えられることでさざなみのように広がるのが、二人にははきと視える。
「これが、白龍の神子の力」
 ヒトならぬモノ達が望美の放つ陽の気に惹かれて集まる様子を見ながら、はぽつりと呟いた。カタチを定めずただ放たれていた気が、ふと空気の流れになって渦を巻く。舞いながら脳裏に何を思い描いたのか、無色であるはずの風に、薄紅色の光の欠片が纏いつく。
 院やその取り巻きの一行に限らず、場に居合わせたすべての人間の耳目を釘付けにし、その光の風は望美を中心にゆるりと天を目指す。喩えるならば、それは逆巻く花吹雪。季節外れの桜花の乱舞は、ただ清廉に白き龍の神子の舞に彩を添える。
「ヒノエ殿は、これをも見透かしていたのかしら」
「それは、計り知れませんけれど」
 独り言は、隣に座す朔の許には届いていなかったらしい。返ってきたのではなく新たに与えられた言葉に小さく答え、は舞台が最もよく見える場所で院と共に舞を観賞しているヒノエへと視線を流す。
「少なくとも、ヒノエ殿の思惑は、これにて布陣を完璧に整えられたということでしょう」
 流した視線に気づいたのか、首を動かさずにちらと瞳を動かしたヒノエは、いたずらげに口の端を吊り上げてみせた。


 大盛況の内に幕を閉じた奉納舞の後、望美は院からの呼び出しを受け、ヒノエともども続く歓待の宴席へと参じていた。駆け引きはヒノエの仕事であり、そもそも虜囚にすぎないには、こうなってしまえばやることなど何もないに等しい。
 弁慶と景時と共になにやら話し合いを重ねる九郎の傍に侍っても邪魔になるだけ。ならばとせっかくの自由時間に羽を伸ばすことを決めたは、夕餉を終えて後、すっかり人気の失せた舞台をぼんやりと見上げていた。
 勝手に上がることは憚られるが、先の望美の姿に刺激を受けたのは事実だ。扇もなく、刀もない。何も手に持つものはないけれども、それこそが記憶をくすぐる。
 どこからかさまよい出てきた蛍が、ぽつりぽつりと夜闇に灯りをともす。思わぬ演出に口元を綻ばせ、はひとつ息を吸ってから腕を持ち上げた。
 楽もなく、客もなく、誂えもなく。ただ心の向くままになぞるのは勇壮なる剣舞。繋がれた未来を祝し、その道を阻むあらゆる障害を切り伏せることを祈り、導くために先陣を切る者達を鼓舞するための、奉納舞。久しぶりの割にはのびのびと動く四肢に自然と微笑みは深まり、一層すべての動きに没頭していく。


 ひょうと、不意に添えられた音に瞼を持ち上げ、動きは止めないままは笑う。いつの間にやってきたのか、少し離れたところで敦盛が笛を構えていた。その周囲で思い思いの姿勢で観賞しているのは、難しい話で眉間に皺を寄せているはずの源氏勢の面々に、いつの間に宴が明けたのか、正装を紐解かないままのヒノエと望美だ。
 即興と思われる音曲は、驚くほど舞に馴染むものだった。思わぬ彩に素直に心地良さを覚え、は再び視界を閉ざして四肢に意識を行き渡らせる。そうしてゆるりと終焉を向かえて頭を垂れたに、与えられたのは拍手。応えて腰を伸ばすのと、望美が飛びついてくるのは同時。
「スゴイ、さん! とっても綺麗だった!」
「もったいないお言葉です」
「本当だよ? お世辞なんかじゃなくて、本当に綺麗だった。見惚れちゃったもん。ね、九郎さん?」
 両手を握り締めてにこにこと笑い、ふと振り返る声は掛け値なしに弾んでいた。誘われて視線を流せば、こちらもやはり掛け値なしの笑みを湛えた九郎が大きく頷いている。
「姿が見えないと聞いて探しに出たのだが、思わぬ眼福だった」
「……申し訳ありません。一応、言伝は残したのですが」
「ああ、いや。気にしないでくれ。聞いている。だが、それでもと探しに出たがったのは俺だ」
 言って距離を縮め、九郎はふいと視線を周囲に流す。
「不思議なものだな。俺は舞だの楽だのといったものはまるでわからんのだが、先ほどの舞で、一帯の空気が清められたように感じる」
「それはそうだろ。剣舞は清めの舞でもあるからね」
 独り言にも似た賛辞の言葉にが目を見開けば、続いて手近な樹にもたれかかっていたヒノエがさらりと笑う。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。