やさしきやいば
朔が何を言わんとしているのかがどうにも掴みきれず、揺れる視線はやはり疑問を浮かべる望美の視線とかち合う。けれど、疑問を交し合ったところで答には辿り着けない。結局また朔に視線を戻したは、微笑を拭い去ってただ深く見据える墨色の瞳に囚われる。
「こんなにも、何もかもを懸けてしまえるほど、あなたは知盛殿のことを、深く愛しているのでしょう?」
声は穏やかで、あまりにも遠く、深かった。凪いだ湖面のような墨色の瞳の中に、は大きく目を見開き、息を詰めている己の姿を認める。だが、声が出せない。
「傍にあって戦い、そして別たれてもなお、互いを信じて戦い抜いていられる。……あなた達の絆と心の強さは、本当に、得難いものだと思うわ」
言って瞳を細め、何かに思いを馳せる表情を浮かべ、そして朔は小さく頭を振った。
「今は少し、あなたの心が、あらゆるものに対して過敏になっているだけ。あなた達の絆は、こんな程度で引き裂かれるような、そんな脆いものではないはずでしょう?」
その言が強い力を持つのは、たとえ加護を与える神を失ったとはいえ、彼女が神子という特殊な存在だからなのか。決してそれだけとは思えない、実感と感慨が強く篭められた声をゆっくり口の中でなぞりなおし、は与えられた言葉の意味を胸に沈めていく。
「大丈夫よ。思いが深い分、反応が強くなってしまっているだけなの」
ゆるりと吊り上げられた唇が、慈愛に満ちた声を降り積もらせる。
「だから、お願い。あなたの思いを、あなた自身で否定してしまわないで。この諍いにあってなお裂かれなかったあなた達の絆を、あなた達の手で、断ち切ってしまわないで」
そっと握り込まれていた指先に、力が篭められる。その熱に、思い入れの深い願いをかけられたのだと知り、は静かに睫を上下させる。
主と自分の関係を定義する言葉はいくつかあった。主従というのは無論のこと、枕だの、刃と鞘だの、そのどれもをは受け入れているし、どれをも好んでいる。そこに介在するのは、あるいは敬愛であり親愛であり信頼、時には同病相憐れむ思いでもあった。
それらをすべてひっくるめて“愛”と呼ぶのなら、それは決して間違いではない。だが、朔の放つ“愛”という音の響きは、そういったものとは一線を画しているように思えたのだ。
「断つなど、そんなこと」
考えられない。そしてありえない。ひとまず終わりの見えない思索を振り払って否定を返し、そしては己に言い聞かせるように言葉を重ねる。
「たとえお傍を離れようとも、どこにあろうとも、わたしは知盛殿の背を守るために戦いますと、そう誓いました。その誓いを覆さない限り、この思いが絶たれることは、ありえません」
突き詰めてしまえば、そういうことだ。理由のわからない拒絶を身体が示すというのなら、その拒絶を向けずにすむ場所で、ひたすらにできることを為すしかないのだろう。細く、今にも崩れてしまいそうな未来に繋がる可能性を必死に握り締め、は唇を震わせる。
帰りたい、帰れるかもしれない、けれど、帰れないかもしれなくなった。
希望を目にした途端に叩きつけられた絶望を睨み据え、新しく刻みなおす覚悟は、あまりにも苦い。情けなさに歯噛みし、悔しさに肩を震わせ、しかしそのすべては己に起因することだから誰を詰ることもできない。せめてこれ以上無様な姿は晒すまいと、なけなしの矜持をかき集め、迷いを振り切っては凄絶に嗤う。
「それが、わたしの道ですから」
かの存在を喪うことは、世界を失うに等しい絶望。ならば、かの存在を拒絶することは、世界を認められないに等しい失望。そんな道を選ぶくらいなら、そんな惨めさを曝すぐらいなら。あらゆる失意を抱えてでも、絶望に至らない道を往くことこそがの意地。
あなたの許に帰りつき、あなたの望む終わりに、あなたの願う未来に、きっと一緒に辿りつくために。
帰れなくなってからずっと抱き続けていた渇仰を、ほんの少しだけ掏り替える。
あなたの帰りつく場所を見つめ、あなたの望む終わりを、あなたの願う未来を、きっと見届けるために。
きっと、それならば叶うだろう。約束を半ばで破棄せねばならないのは胸が張り裂けそうなほどに悲しかったけれど、これ以上、自分にとって世界のすべてにも等しい、誇りを持って生きるためのおよそすべてを与えてくれた人を、他ならぬ自身の手で拒絶するという絶望に向き合うことは耐え切れない。
気遣わしげに見つめてくる瞳に悲しみが滲んでいることは読み取れたが、は慰めの言葉を朔に許さなかった。
たとえ誰に何と言われようとも、定めるのは自分自身。どんな外的要因があろうとも、畢竟、生きる道を選び取るのは己に他ならない。だから、選び取る道についての忠告や諫言は聞くが、憐れまれることは認められない。
「……まだ、時間があるわ。だから、それまでゆっくり、少しずつ、慣らしていきましょう?」
強く見据える瞳に、頑として譲らない意思を過たず汲み取ったのだろう。切なげに視線を伏せ、けれど朔はそう穏やかに諭す。無論、とてまだ可能性を諦めるつもりはない。帰れるのなら、帰りたいのだ。
許される限り彼の傍で、彼を見失わずに、叶うならば彼の拠り所のひとつとなって生きたいと思っていた。それこそが、この世界におけるの生きる道と願った。貫く覚悟と定めた。その道を貫いて生きるために、すべての選択から目を逸らさず、あらゆる意地と矜持を譲らないと。そう、覚悟を決めた。
彼が貫くと決めた道であり“殻”を受け入れ、鞘として“彼自身”を追うことを願った。わかりにくくも優しい主を、支え、守りたいと決めていた。
たった半歩道を違えただけで底なしの暗黒へと沈んでしまいそうな主のために、穏やかな休眠を供する鞘であり続けたいのだと、そう願った。
「そうですね」
ひとまず、克服すべきはこの無意識下に構築されてしまった男性への反射的な恐怖心と警戒心だろう。提示された取り組むべき当面の目標に素直に頷き、そしては少しだけ罰の悪さを覚えて、小さく「ごめんなさい」と呟いた。
詳しい事情は知らないが、女性が髪を下ろす理由は往々にして菩提を弔うためと決まっている。それも、夫の。だとすれば、先の朔の言葉は、自分の姿に自身の過去を重ね見ての助言だったのかもしれない。
「その――」
「いいのよ」
うまく言葉を纏められないまま、それでも、ただ無碍に拒絶したわけではなく、自分には譲れない信念がある旨を伝えたいと思って口を開くものの、朔はただ静かに微笑んで首を振る。
「いいの。言ったでしょう? あなたが羨ましいと。それは、あなたのその意志の強さを含めて、ですもの」
その、すべてを受け入れ、すべてを見透かす視線は、俗世を離れることを決めたからのものなのか、神子ゆえのものなのか。にはあいにく、推し量ることさえできない。
「そうして、思いを貫くために道を定める強さも、私はやっぱり羨ましく思うわ。だから、いいの。ただ、私の言ったことを、よければ少しだけ、気に留めておいてね?」
「……ご忠言、しかと」
「そんな、大それたものじゃないわ」
せめてもの思いを篭めて、至近距離ゆえの制約はあれど、叶う限りの深さで頭を下げれば、やわらかな笑声が降ってくる。供される底知れぬ優しさと気遣いにうっかり涙を零さないよう、俯いたまま唇を噛み締めていたは、だから、二人の様子を黙ってじっと見つめていた望美の瞳の奥に宿った強い光に気づくことがなかった。
Fin.