朔夜のうさぎは夢を見る

やさしきやいば

 一言も発さないまま先導の女房について寝室として供された部屋まで辿りついた望美は、やはり朔に促されるまま腰を下ろすものの、ろくに反応を示そうともしないを気遣わしげに見やる。出逢った時はともかく、それ以後のを見かける中で、ここまで自失した様子ははじめて見るのだ。慣れないことに思わずさまよわせた視線は、救いを求めるようにすべてを諒解している風情の朔へと向かう。
「ひとりになりたいなら、席を外すわ……。とにかく、まずは落ち着くことよ」
 用意されていた水差しから椀に清水を注ぎ、そっと床に置いてから朔はに静かに語りかけた。だが、その言葉を受けてようやく視線を持ち上げたは、頼りない様子でゆるりと首を振る。
「どうぞ、ここに」
「それで、あなたは大丈夫なの?」
「朔殿も、望美殿も……女性ですから」
 ほろりと、今にも泣き出しそうな苦笑を返し、は膝の上で小刻みに震える指をぎゅっと握り締める。


 自身でも、先の行動は予想外であり信じられなかったのだ。確かに、こうして九郎の傍に置かれるようになった一件以来、どうしても異性に対する警戒心とどことない恐怖心が抜けることはなかった。だが、それでも半強制的に傍で過ごす以上、それらの感情を押さえつける術も身につけたし、かなり軽減されてきたとも感じていたのだ。
 現に、将臣が傍までやってきた時は恐怖など感じないほど安堵が大きかったし、警戒心など湧かなかった。それが、どうしたことか。
 誰よりもその人となりを把握しているはずであり、そんな可能性が万に一つもないと確信できている知盛に、かくも過剰な反応を取ってしまうなど。しかも、何を思うよりも先に、体が反射的に。
 思い返して改めて血の気を失せさせながら、同時には唇を噛んで眉間に皺を寄せる。己の取った行動を自覚すると同時に深い驚愕と失意に叩き落されたとは対照的に、知盛は何も変わることがなかった。淡々と指を引き戻し、興味を失った様子で視線を外していた。その淡白さが、の胸にそれまでのものとは別種の恐怖を抱かせる。
 まさかよもや、こうして身を置く場所を敵味方に別つことを選んだと、そう思われたのだろうか。その傍から離れると、そういう意思と見なされたのだろうか。そしてこの身は、思考による吟味を必要としないほどに、そう知盛に確信させるほどに、その選択を欲していたのだろうか。


 思考が深まれば深まるほど、恐怖と絶望は深まり、猜疑が触手を伸ばしていく。そうして自省の渦のそこで蹲っていたは、そっと指を掬い上げられ、はたと瞬いて慌てて正面に座す人物へと意識を移した。
「大丈夫よ。きっと、わかってくださるわ」
 細くひんやりとなめらかな指が、血の気を失っているの指先を握り締める。
「あなたに悪気がないことは、みんなわかっているもの。たとえ勘違いをされたとしても、きっと、将臣殿が取り成してくださるわ。将臣殿のことは、私もそれなりに存じ上げているつもりだけど、そういう方でしょう?」
 ね、と。言って振り返られた望美が、大きく首を縦に振って朔に続く。
「あんなに心配していたんだから、将臣くんは絶対、さんの味方だよ」
「ね? 大丈夫、大丈夫だから」
 いざりより、身を乗り出しながら言葉を重ねた望美と微笑を交わしあい、再びに向き直って朔はその乾いた目尻に指を這わせる。今にも泣き出しそうな、絶望に染まった表情をしているのに、の瞳は乾いている。
 感情を昂らせ、反射的に泣くことさえできないのか。それとも、感情が昂りすぎて、泣くという行為さえ突破してしまったのか。いずれにせよ居た堪れないことだと、そっと眉根を寄せながら朔は幼子を慰めるような心持ちさえ抱きながら、その指を滑らせて肩を抱いてやる。
 抱き寄せ、肩口に額を抱きこんでやってはじめて湿り気を帯びたを取り巻く空気に、朔は気づかれないよう細心の注意を払って肺腑の底から息を吐き出す。


 あたたかな墨色に染まった視界をそっと閉ざし、は肩を軽く叩かれるままに呼吸を整えていた。あとほんの少しでも気を抜けば、きっと堰を切ったように涙が溢れ、嗚咽が喉を震わせるだろう。その一歩手前で必死に踏みとどまりながら、思うのは拒絶の所以。
 悪気がなかったと、それは指摘のままだ。悪気などなかったし、他意もなかった。むしろ、あの行動に思考は何も伴われていなかったのだ。だからこそ性質が悪い。
 生き延びたことを咎められず、このまま信じる道を往けと許容を示された。その言葉には確かに安堵を覚えたのに、なぜ、差し伸べられた指を振り払わねばならなかったのか。明白な矛盾を貫く理屈が、には見出せない。
「――あなたは、知盛殿のために、戦っているのね」
 だから、ゆるゆると吐き出されると息に絡めるようにして落とされた言葉に、ははたと顔を上げていた。


 告げられた言葉は寸分違わずにとっての真理だったが、悟られるようなことを言った覚えはない。第一、それは月天将の噂を聞いていれば、主従という意味で、何の疑問もなく理解できることだろう。こんな、深い感慨と情愛を篭めて、しみじみと紡がれるようなことではない。
 言葉の裏に潜まされた意味は何なのか。朔の意図がわからず思わず凝と見つめてしまうの視線を真っ直ぐに受け止め、けれど黒き龍の神子はやはり深く微笑むばかり。
「羨ましいと、そう言っては失礼なのかもしれないけれど……。やっぱり、羨ましいわ」
「……戦う力を持つことが、ですか?」
「それもそうだけれど、それだけではなくて」
 かく言う朔とて、望美と並んで戦場に立つ、十分に戦う力を持った女性であるが、他には自分が羨ましがられる要因が見当たらない。もしや、このたおやかな印象の尼君は太刀を握りたいのかと、そんなことを考えながら問い返せば、微笑にはどこか困ったような風情が付加される。

Fin.

back --- next

back to 遥かなる時空の中で index
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。