朔夜のうさぎは夢を見る

やさしきやいば

 もっとも、確証を得たところで今から時間をさかのぼることなど叶うはずもないし、今さらどうすることもない。納得を胸に沈め、ひとつ頭を振ってから熊野別当としての表情で還内府たる青年を呼ぶ。
「意味ありげだったけど、放っといて大丈夫かい? ここまできて、アイツに気紛れを起こされるのはごめんだよ?」
「それはねぇよ。心配すんな」
 余人には想像もつかない気紛れで飄々とした振る舞いと言動は、かの新中納言の代名詞といってもいい。信心深さで知られる彼の弟と違い、知盛が限りなく無神論者に近いことをヒノエは知っている。
 起請誓紙に刻まれた牛王宝印など、きっと気にも留めていないだろう。その確信と同じほどの強さで彼が今さら道を違えたりしないだろうと感じてもいたが、言質を取るに越したことはない。そう考えて振り仰いだ先からは、それこそ確信と信頼に満ち満ちた声が力強く返される。
「それだけは絶対ない。……それが、アイツの意地だからな」
 哀切と憐憫に濡れたあまりにも深く優しい表情に、小さく目を瞠ってからヒノエはそっと同意を示す。
「ならいいよ。他ならぬアンタが言うんなら、疑う余地もないからね」
「お、随分な信用だな? そう言われたんじゃ、絶対ぇ裏切れねぇな」
 からりと笑って杯を干し、将臣は九郎へと向き直る。


 向き直り、やはりちょうど干されていた杯に手ずから酒を満たしてやれば、すっと寄ってきた敦盛が将臣の杯を同じように満たす。それに小さく「サンキュ」と笑ってから、将臣は改めて口を開いた。
「傍仕えってことにして牢から出してくれたの、九郎だろ? まあ、見た時にはびっくりしたけどさ」
「ああ。さすがに見過ごせなかったし、それが一番無難だったからな」
 自身が道中で九郎の傍仕えであると言っていたことや、後白河院への説明からもそれはたやすく推測できることであったが、将臣には同時に九郎の性格という根拠もある。どこか居心地の悪そうな表情を浮かべながらも素直に頷いた天地の対に、将臣はひとつ頷いてからおもむろに頭を下げた。
「ま、将臣ッ!?」
「ありがとう」
 杯を床に、簡略的とはいえどこか形式ばった礼を向けられ、九郎はうわずった声で将臣を呼ぶ。その動揺と類似した感情を載せた視線が、いくつも突き刺さる。だが、将臣は姿勢を崩さない。
「和議の相談を呑んでくれたことと……敦盛を助けてくれたこと。胡蝶さんを大切にしてくれてることも。俺が頭を下げて、それで足りることじゃないし、筋違いかもしれないけど」
 ぐっと、さらに深く蒼髪が沈む。
「俺達にとって大切なものを、これ以上壊さないでくれて、ありがとう」
「将臣、止めろ。頼む、顔を上げてくれ」
 すっかり困惑しきった九郎の声に必死に促され、それでも十分に間を置いてから将臣は顔を上げる。その様を、羨ましげに、微笑ましげに、いずれにせよあたたかな思いを滲ませた八対の瞳が見つめている。


 口を開いては閉じ、言葉を探す風情で瞳を宙に泳がせていた九郎が、ふと表情を削ぎ落として将臣に視線を戻した。
「礼を言うには早いぞ。まだ、何も終わっていない。はじまったばかりだ。違うか?」
「……そうだな」
「だから、必ず和議を成らせよう」
 真摯で、真っ直ぐで、一切の濁りを宿さない瞳は力強い光に満ちていた。その視線の強さのまま、やはり真っ直ぐな声で凛と言い切り、九郎は将臣の双眸を覗き込む。
「皆が平和に、あるべき場所で、あるべき幸福を得られるように」
 還内府と会えばわかりあえると、そう悲しげに囁いた娘の言葉は真実だった。だから、九郎もまた自分が娘に差し向けた言葉を現実にしたいと思う。皆が無事に、あるべき場所に帰れれば、と。その未来を掴むきっかけを齎してくれた存在を、彼女はあんなにも苦しげに見つめて、振り払って、あんなにも傷ついた瞳をしていた。
「俺達は、源氏と平氏の総大将だ。だが、天地の対で……友だ。そうだろう?」
 そう思ってしまえば、あまりにも複雑に過ぎた世の理は、あまりにも単純だった。
 敵味方に引き裂かれれば、辛い。友であるなら、手を取り合える。
「互いの立場も、こうして出会ったことも、すべてきっと意味がある。だから、その意味を、未来に繋げよう」
 あるいは、白龍による八葉の選別は、この未来のためだったのではないのかとさえ九郎は考える。源平の重鎮に、熊野という第三勢力。鬼や怨霊という、人外の存在。そのすべての思いを目の当たりにし、そして世の流れに反映せよと。


 ならば何と情けないことか。ならば何と幸いなことか。神子の降臨なくばそんな単純な絡操にさえ気づけず、神子の降臨のおかげで、こうしてただ反目するだけだったはずの二つの勢力が、手を取り合うという選択に向き合えている。向き合うだけの絆を、与えられたのだ。
 しばらくじっとその朝日のようなあたたかな橙色の瞳を覗きこんでから、ふと将臣は眉尻を下げて笑った。
「お前が俺の相棒で、本当に嬉しいよ、九郎」
「俺もそう思うし、還内府がお前という“善い”敵であったことを、喜ばしく思うぞ」
 笑いあい、どちらからともなく杯を掲げあう。
「平和な未来に」
 そう将臣が口元を引き締めれば、応じて九郎は口元を綻ばせる。
「我らの友誼に」
 そして、次々に掲げられた杯が揺らされ、引き取るようにヒノエが謳う。
「そのかすがいとなった、我らが神子姫様に」
 一気に干した杯の中身は杯によって違えど、未来を願う思いは重なり合っている。なんとなく顔を見合わせて照れくささにはにかみあう一同の中で、ついと視線を巡らせた白龍が、将臣を呼んで微笑む。
「将臣、大丈夫。恐がらなくていい。信じて」
「ん? なんだ? 俺はお前らのこと、信用してるぞ?」
「ううん、違う……人の言葉は、難しいね。そうじゃなくて、魂は、あるべきところに行き着くものだ。だから、大丈夫。将臣の愁いは、きっと晴れるよ」
 どう、通じた? と。無邪気に首を捻る神にはっと目を見開き、息を呑み。何を言っているのかとそれぞれに思いを巡らせる中で、将臣は瞳を細めて「だといいな」と切なげに笑っていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。