朔夜のうさぎは夢を見る

やさしきやいば

 しんと、静まり返ってしまった場の中で、しかし特に感慨もみせずに淡々と動いたのは知盛だった。黙って指を引き戻し、相変わらずの内心の読めない底知れない瞳でを見つめている。逆に動きを止めたのは、振り払った当人であるだった。唖然と目を見開き、完全に血の気を失せさせ、声にならに言葉を口の中で転がしながら、ひたすらに呼吸を繰り返す。
「失礼。申し訳ありませんけれど、私達はこれにて下がらせていただきたく思いますわ」
 次いで声を取り戻したらしい朔がするりと裾を捌いてと知盛の間に滑り込み、慇懃にそう言いおいて軽く頭を下げる。
「……それが、よろしかろう」
「そうだね。案内には、アイツがつくから」
 やはり淡々と応じた知盛に重ねてヒノエが頷き、目線を流した先では宴席を調えるために働いていた女房のうちの一人が立ち上がったところだった。流されるあらゆる視線を撥ね退け、朔はいまだに忘我の境地から戻ってこられずにいるの手をそっと引いて、立ち上がる。
「望美も、行きましょう?」
「え? あ、うん」
 ふらふらと、抵抗の意思など微塵もなく朔に為されるがまま腰を上げたを先導しながらの一言に促され、望美もまた立ち上がる。そして、困惑を浮かべながらも「おやすみなさい」と就寝の挨拶を述べると、あまりのあっけなさと唐突さだけを残り香に、女性陣は宴席を後にしたのだった。


 それぞれがそれぞれの思いを篭めてその細い三つの背中を見送る中、知盛だけは視線を己の手に落としている。振り払われ、打ち据えられて仄かに赤みを帯びた掌を見下ろし、そっと視界を閉ざしてこぼれそうになった溜め息を飲み込んだ。
「決して、悪気があってのことではないのです」
 ぽつぽつと。視線が向けられるのは感じていたが、いちいち反応するのも面倒だからと捨て置いていたのに、弁慶の穏やかに宥めるような声が沈黙を引き裂く。
「ただ、少しばかり事情がありまして」
「……いや。こちらの落ち度であったな」
 今度は殺しもせず溜め息を吐き出し、そして知盛はひらりと手を振ってそれ以上の説明を拒絶した。
「懐かしき顔に、節度を忘れた……。御曹司殿におかれては、ご不快な思いをさせていなければと、そう願うばかり」
 そのままそれこそ慇懃な口調で言葉を重ね、体の向きを直して軽く一礼してから知盛はその隣で苦虫を噛み潰した表情で己を見つめている将臣へと視線を流す。
「俺も、この辺りで失礼させていただこう。八葉同士、積もる話もあろう? お前は、ゆるりと過ごせば良かろうよ、有川」
「知盛、けど――」
「確かめたいことは、確かめた。……お前がお節介であることは知っているがな。余計な気は、回さぬことだ」
 反駁は受け付けぬとばかりにきっぱりと、しかしどこか慰めるようなぬくもりを滲ませる声で言って腰を上げ、次いで知盛はヒノエを見やる。
「太刀は」
「案内してから渡すよ。まあ、邸内での刃傷沙汰はごめんだけど」
「不届き者がなくば、いたずらに抜きはせんさ」
 肩を竦めて飄々と応じ、知盛は案内にと寄ってきていた女房を促して踵を返す。ゆるりと、どこか気だるげなくせに、意外にも背筋をしゃんと伸ばして姿勢よく歩み去る後姿を声もなく見送って。一座は、図らずも同時に溜め息をこぼしていた。


「で? さっきのアレについて、誰か簡単に説明してくれねぇ?」
「まあ、ありていに言ってしまえば、男性全般に対して、過剰な警戒心が抜けないといったところでしょうか」
「原因は?」
「言わないと、わかりませんか?」
 広間の入り口に視線を固定したまま呻いた将臣に、弁慶がさらりと応じる。互いに目をあわせようともせずにぽんぽんと言葉を交わし、最終的には将臣の溜め息で会話が締め括られる。
「あー、やっぱそうか。どうも、一緒にいた時もやったら朔が胡蝶さんのこと庇いまくるから、おかしいとは思ってたんだけど」
 はあ、と。改めて深々と息を吐き出し、顔を元の位置に戻してから将臣は肩を落とす。
「その、将臣。……すまない」
「ん? いや、お前が謝ることじゃねぇだろ?」
「だが、軍紀の乱れは俺の責。まして、殿は名のある将であるというのに」
「しょーがねぇよ。どんだけ規律を作ったって、敵将は憎むべき相手でしかないんだからな。お前を責めても仕方ないし、その辺は、たぶん俺らなんかより本人達の方がわかってる」
 ぎりぎりと膝の上で拳を握り締めた九郎が苦渋の表情で告げるのに対し、悲しげに苦笑を返した将臣は、いつの間にやら近くに集まっていた残る面々を見回す。
「それに、お前らは胡蝶さんにそういう扱いをしてなかったしな」
「……胡蝶っていうのは、の呼び名かい?」
 しんみり湿ってしまった空気をそっと拭うように、ヒノエから差し向けられた問いに、将臣は軽く目を見開いてからすぐに頷いた。


 九郎達と行動していた際には、紹介されたとおりと呼んでいたのだが、隠す必要がないのなら呼びなれた胡蝶という呼称の方が、自然に口をつく。ゆえ、指摘をされて初めて、自分が口慣れた呼びかけを使っていたことに気づいたのだ。
「ああ。本人にはどっちでもいいって言われたんだけど、あいにく、知盛の許可が下りなくってな。そう呼んでる」
「ふぅん。じゃあ、やっぱり拾った時に隠しとくんだったな」
 もったいないことをしたと嘯くヒノエに、身内の遠慮のなさで弁慶が一同の疑問を代弁する。
「どういうことです?」
「有名な噂だぜ? 平参議の邸には、妙なる胡蝶が囲われている。新中納言殿の二夜と続かない移り香は、けれど夜ごとおとなう蓮華の安息香に包まれているってな」
 さらりと明かされたのは、一時京の貴族中を駆け巡ったあまりにも有名な一人の女房についての噂話。それはいつしか暗黙の了解へと昇華したため、あえて人の口に上ることもなくなったが、こと月天将の存在が表に出るようになってから、ヒノエはずっと、胸の奥にしこりとなってその噂話が燻っているのを感じていたのだ。
 そうだろうと、ほぼ確信に近い推測はしていたのだが、ことここに至って、ようやく推測を裏打ちする証言を得られた。収まりのつかなかったもやもやした疑問がようやく拭われた心地よさに、ヒノエはわずかに瞳を細める。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。