朔夜のうさぎは夢を見る

やさしきやいば

 逡巡を目敏く見抜いたのだろう。にっと楽しげに笑った望美が、折よく視線を向けてきた将臣に朗らかに笑って手を振る。横に、ではなく、縦に。それは即ち、差し招く仕草と同義なのだ。同じく視線を向けていた九郎と顔を見合わせてから、将臣は杯と瓶子を携えてするりと腰を上げる。
「確かめてる暇なかったから、今さらだけど。無事だったんだな」
 ざかざか大股で広間を横切ってから九郎と二人でどっかりと座り込み、将臣はまずふわりと笑った。
「……良かった」
 そのまま暫し無言でをじっと見つめてから、噛み締めるように気遣いの言葉が紡ぎだされる。既に旅路の途中でその姿を見て確信は持っているだろうに、本人から確認せねば気がすまないのだろう。改めて問い質されることに、ようやくあるべき姿として対峙できた実感を抱き、は頬が緩むのを感じる。
「怪我は大丈夫か? 飯はちゃんと食えてる? 夏バテとか、してねぇ?」
「お蔭さまで、つつがなく」
 畳み掛ける言葉がくすぐったく、気遣う瞳が懐かしく。仄かに苦笑を返してはそっと言葉を返す。
「かくも大口を叩きましたのに、このような結末となりまして。大変申し訳ございませんでした」
 そして、ようやく伝えることのできた不始末への謝罪に深く頭を下げれば、すぐさま「あー、顔を上げてくれ」と困りきった声が降ってくる。
「そういうの、なしにしようぜ。胡蝶さんは悪くねぇよ。むしろ、代わりに俺が行けばよかったって言ったら、知盛に叱られたし」
 苦笑交じりの言葉にぴくりと肩を跳ねさせ、は視線を床に落とす。
「俺は、胡蝶さんのおかげでちゃんと帰れたんだ。だから、謝るのはなし。その代わり、この先は俺らがもっと踏ん張って、必ず和議を結んで。無事に帰ってもらえるように頑張るから」
 もう少し、待っててくれ、と。やわらかくも深い声で与えられた約定に、は俯いたまま小さく頷く。


 そのまま、わずかに前屈みになっていた姿勢を戻す気配があり、将臣はふと隣に座る九郎を振り返ったようだった。
「なぁ、知盛にも話させてやるのは、マズイか?」
「……一応、捕虜だからな。このまま、俺の立会いは必須だが」
「ん。そんぐらいは承知の上だろ。――おーい、知盛! こっち来い!」
 考え考え言葉を紡いだ九郎にあっけらかんと笑い返し、背中を振り向いて声を上げてから将臣は「サンキュ」と軽やかに礼を紡ぐ。顔を俯けているゆえに委細はわからないが、ひどく静かに張り詰めた、ほんの数月前までは誰よりも身近に接し続けていた気配が足音もなく近寄ってくるのを感じ、はますます身を硬くする。
「そんな緊張しなくても、知盛もずっと心配してたはずだ。怒ってなんかねぇから、大丈夫だぜ?」
 宥めるような声が終わるのと、衣擦れの音が微かに響いて将臣の隣、九郎とは反対側にその音の主が腰を下ろすのは同時。どうすべきかと逡巡し、結局黙って額づいたの後頭部に、静かな視線が降り注ぐ。


「運があったのか、なかったのか」
 しばしの沈黙をはさみ、ようやく発されたのは、脈絡の読めない単語だった。周囲に佇む気配が戸惑うのは感じていたが、は黙って瞼を下ろしたまま、額づく姿勢を崩さない。
「名を高める方向は、あるいは正しかったのやもしれんな」
「……正誤はともかく。名に命を繋がれたことは、事実にございましょう」
「俺のものと?」
「それも含めて」
 憶えのある会話だと。そう思い至ったため意識して覚えのある言葉を返せば、くつりと喉で笑う気配があり、そして「顔を上げろ」と促される。
「お約束、を、」
「お前がお前を穢していないなら、それでいい」
 促されて、けれど顔を上げることは躊躇われて。呻くように言葉を絞り出すを、感情の読めない声があっさりと遮る。
「軍師殿から聞いた。お前は決して、我らに害となるようなことは口にせなんだと……。お前は、そうしてお前の信を守り抜いているのだろう? ならば、それでいい」
 ほんのわずかにだけやわらげられた、慣れない者には相変わらずの単調さしか聞き取れないだろう声に、はようやく顔を持ち上げる。
「この先は、完全に俺や還内府殿の領分だ。余計なことなど考えず、お前はただ、お前の信を貫いていればいいさ」
 告げて眇められた双眸に、はようやく、無意識の内に詰めていた息を吐き出す。


 必ず戻るという約束を守れなかったことが苦しかった。捕虜と成り果ててなお、いつか帰るからと生き続けることを切望した己に、将らしからぬと失望されるのではないかと恐怖していた。もういらないと、もう知らないと。そう言われることへの恐怖と約束を違えたことへの罪悪感は、ずっと、目を合わせることさえも躊躇わせ続けていたのだ。
 許容の言葉を与えられた途端、おかしくなるぐらいあっさりと霧散した胸中のしこりが、俯きがちだった視線を沈めるだけの重みを失う。いまだ罪悪感は残っている。けれどやっと真っ直ぐにそのどこか懐かしささえ感じる深紫の双眸に向き合い、は安堵からきているのだろう声の震えを自覚しながらも気丈に言葉を返す。
「まだ、あのお言葉は有効ですか?」
「あの、というのがどれを示されているのかは、知らんが」
 仄かに揶揄を絡めた声で小さく笑い、ますますおかしげに瞳を細めた知盛は、しかしひどく穏やかに言葉を重ねる。
「俺は、俺の道を往く。そしてお前は、お前の道を往けば良い。――お前がいかな道を選ぼうとも、俺は否定せぬし、拒絶せぬ。それは、今も、これからも、変わることはない」
 そしてゆるりと。かつて六波羅で、福原で、都落ちの中で身を寄せた様々な場所で、あるいは陣においてさえ。いつ、どのような局面であっても変わることのなかった所作で伸ばされた知盛の指が、その存在を確かめるかのように、の頬に触れる。
 それは将臣にとってはごく見慣れた光景であり、知らぬその他の面々から見てもどこか照れくささはあるものの、恐らくは微笑ましく映るだろう光景。だというのに、指先が頬へと届いた途端、場に響いたのは、その手を打ち払う乾いた打撃音だった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。